2012.6.10 明治学院教会(276)聖霊降臨節 ③ 花の日・子どもの日
(配布「聴き手のために」はPDFで掲載)
(明治学院教会牧師、健作さん78歳)
箴言 16:16-20、ヨハネの手紙一 2:12-17
生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。(ヨハネの手紙一 2:16、新共同訳)
今日の聖書の「生活のおごり」という言葉で、今、何を連想しますか。
「除染ゼネコン……巨額予算を丸投げ」
東京新聞(6月1日)の第一面見出しを私は思い出しました。原発建設で大儲けした大手ゼネコンが、放射能を除染して、また大儲けをする。片方で、帰宅困難者がいて、この人たちは、生活・仕事・財産・家族関係・希望までも奪われています。
「ヨハネの手紙一」の言う
「世も世にあるものも、愛してはなりません」(ヨハネの手紙一 2:15)
の言葉を生きようと思ったら、それは大変な価値観の闘いなのです。その闘いはイエスの言葉
「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マルコ 8:34)
を思いださせます。原発を容認しながら(現状の世の悪を抱え込んで「おごった」生活をしながら)やってゆきましょうという事は聖書の生き方からは出てこないと思います。
しかし、今日、この個所から聴き届けたいメッセージは、そこが中心ではないのです。
著者「ヨハネ」のこの個所の語り方です。
この書の目的は、前回も触れましたように「ヨハネ」が手紙を宛てた教会(ヨハネの教会と一応言っておきます)の中には「グノーシス主義」にかぶれて自分の信仰理解をひけらかし、「神を知っている」(2:4)と言い張るくせに、人間関係や生活のレベルで「愛のない」人達がいて、その人たちを「神の御心」へと戒めることが主眼だと申しました。鋭い批判をしているのです。
しかし、ヨハネは、その人たちを排除してはいません。この人達とそうでない人とをはじめから分けて、批判を一部の人達だけに語ってはいません。その語り方を、12節から14節までにみると「子たち」「父たち」「若者たち」に対して、極めて肯定的・抱擁的なのです。
みんな「罪が許されている」(2:12)「初めから存在なさる方を知っている」(2:13)「御父を知っている」「神の言葉があなたの内にいつもあり」「悪い者に打ち勝った」(2:14)。
ヨハネの手紙一 2:12-14 (新共同訳)
⑫ 子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によってあなたがたの罪が赦されているからである。
⑬ 父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。
若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
⑭ 子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。
父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。
若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。
譬えて言えば、外科手術的で患部へのメスを入れる方法ではなくて、内科的に全体の治癒力を信じて回復させようとする方法なのです。グノーシス批判にも拘わらず、全体包含的なのです。
私は、今までいろいろな市民運動に携わってきました。運動の論理を厳密にして、内部批判、内ゲバを鋭くすると、運動は分裂をします。
そうかと言って、大きな基本目標をあいまいにすれば、運動は崩れてしまいます。平和、人権、差別、憲法、公害、命、市民生活、くらし、環境、脱原発、反戦、「……を支える会」などなどをテーマにする運動は、当事者が絶えず、自分の在り方への批判、相互の内部批判、を鋭く持ちながらも、「神の御心」すなわち「愛」をもって、結びつきを信じ、作りだして行かないと、運動が長続きしません。
矢内原忠雄氏(無教会指導者、東大総長)はかつてこのヨハネの手紙を
「重複が多く、何だか、老ヨハネの繰言のような印象を避けがたいものがある」(『ヨハネ第一の研究』p.663)
と言っています。しかし、老ヨハネが、信仰の本質については、鋭い批判をもちながら、老若男女、様々な性格の人々が居る「教会」に老練な経験から愛を注いでいたことが読み取れます。
「今、神の御心は」と問えば「生活のおごり」と決別すること、内々相互の批判を持ちつつ「愛をもって」運動(教会も運動の一つ)を進めることではないでしょうか。
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