2012.6.3 明治学院教会(275)聖霊降臨節 ②
(配布「聴き手のために」はPDFで掲載)
(明治学院教会牧師、健作さん78歳)
エレミヤ 1:4-8 、ヨハネの手紙第一 2:1-11
「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には、神の愛が実現します」(ヨハネの手紙一 2:5、新共同訳)
1.錯覚とか錯視ということがあります。新幹線がカーブにかかって車体が斜めになっているのに、窓からは広大な地面が斜めの坂になっているように思えるのです。
中から見ているのと、外から見ているのとの違いです。
ヨハネの手紙一の2章で著者は、中から神を見ている人達を批判しています。グノーシス(覚知)主義の人達のことです。彼らは
「(私は)神を知っている(エグノーカ)」(ヨハネの手紙一 2:4、新共同訳)
と言います。パウロは「神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ4:9)と、外からの見かたを同時に語っています。
神を自分との関係の中で把握する事の、難しさと大事さを語っています。信仰というのは自分を神との関係の中で捉える、それゆえに人を関係(愛)そのものとして捉えるということです。関係の当事者になることなのです。
ヨハネの手紙一 2:1-11はこのことをかなり丁寧に、4つの区分で言っています。
① 1-2節:信仰の土台。神の知り方(弁護者の支援)
② 3-6節:信仰の目標。神を知ることの結果(掟を守ること)
③ 7-8節:信仰のカリキュラム(光の中を歩む)
④ 9-11節:信仰の実際(兄弟を愛すること)
まず「神を知る」事では「知っているつもり」が打ち砕かれる経験から事柄が始まります。旧約の人物、アブラハム・ヤコブ・モーセ・ダビデ・サムエル・イザヤ・エレミヤ、みな然りです。
彼らは、神に選ばれて、神から与えられた役目に生きたのです。主語は神です。
次に「打ち砕かれる」経験(回心)は自分本位な、傲慢な人間には難しいことです。その転換点を「罪を犯さないようになるため」(ヨハネの手紙一 2:1)と言います。「罪(ハマルチア)」は「(神に向かって)的外れ」ということです。自分本位、傲慢のことです。
これを介助するのが「助け手・弁護者(パラクレートス)」です。弁護者はヨハネ福音書に出てきます。これは聖霊のことです(ヨハネ14:15以下)。2節の「贖罪論」は後世の教会の挿入です。
4.「神を知る」事は、認識の問題ではなく、掟を守ることだと論を進めます。列車が軌道を、自動車が高速道路を走るように、掟は「旧く」すでにあったものであるが「新しく」自覚され直されるものなのです。「光の中のいる」(ヨハネの手紙一 2:9)と言っています。
5.今日の中心テーマは「神の言葉を守るなら」の「なら」です。これは条件ではありません。行動の契機です。プールで底に付けている足を浮かせるようなものです。浮かせなければ泳ぎは始まりません。
賀川豊彦没後50年に彼を評価した研究者は、彼をキリスト教の「オーソドクシー(正統教理)」の人ではなく「オーソプラクシー(正しい実践)」の人だと言いましたが、彼の実践はあらゆるところに今も生きています。救貧、労働、農民、協同組合、普選、平和の諸運動。
6.ヨハネは「兄弟を愛せ」と言いました。イエスが「隣人」を超えて「敵」というのに比べて極めて消極的です。でも、足元からやらねば次には進まないものです。
「教会」はまずそこからでしょうか。とにかく「当たって砕けよ」ということから始めることが信仰者の第一歩でしょう。
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