沖縄「復帰」40年(2012 望楼 ㉜)

2012.6.2 キリスト新聞

(明治学院教会牧師、健作さん78歳)

 朝日新聞と沖縄タイムスの共同世論調査によれば、米第基地が減らないのは「本土による沖縄差別だ」との回答が沖縄では50%以上だったという。差別は、差別している側には自覚されない。差別されている側の叫びとして存在する。

 沖縄には十兆円という多額の基地振興計画のお金が注ぎ込まれた。

「お金ほど怖いものはない」という元県知事太田昌秀さんの言葉のように、それは沖縄の真の自立にはならなかった。

 沖縄の責任もある。1人あたりの県民所得は東京都民の半分、失業率はこの3月6.8%で全国平均の4-5%を上回る。

 まだ残る不発弾2千200トンの処理はあと70年かかるという。

 哲学者の高橋哲也さんはこの構図を「犠牲のシステム」だと、ライターの知念ウシさんとの対談で云った。

「基地を持って帰ってくださいね」と知念さんが、さりげなく本土の人間への問題提起をするところが痛い。

 沖織に対してわたしたち「本土人」は慣れ合うことはできない。一人ひとりが「琉球処分」以来、沖縄の本土化、沖縄戦の犠牲、米軍統治、「復帰」以後の基地の存続など、「日本人の罪責」(権力者の仕業であったにせよ)の自覚なしには済まされない。「復帰」40年に思う。

 福島の原発事故は、原発推進政策に潜む「犠牲」のありかを暴露し、沖縄の普天間基地問題は、日米安保体制における「犠牲」のありかを示した。もはや誰も「知らなかった」とは言えない。沖縄も福島も、中央政治の大問題となり、「国民的」規模で可視化されたのだから―。経済成長や安全保障といった共同体全体の利益のために、誰かを「犠牲」にするシステムは正当化できるのか?福島第一原発事故で警戒区域となった富岡町などで幼少期を過ごした哲学者による、緊急書き下ろし。(「BOOK」データベースより)

「望楼」インデックス

問われる本土(2012 望楼 ㉝)

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