2012.6.13、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第37回、「新約聖書ヨハネ福音書の言葉から」④
(明治学院教会牧師 健作さん78歳)
ヨハネ福音書 10章7節ー18節
1.「羊飼い」はヘブル語では”ローエー”、ギリシャ語では”ポイメーン”。
旧約では「牧者」と訳されて60回が用いられている(他に「家畜を飼う者」などの訳がある)。新約では13回用いられ「羊飼い」と訳されているが、そのうち5回はヨハネにある。
辞書的概略を見ておきたい。
「古代イスラエルの諸部族ではカナン定着後、半農半牧が多くなり、農業と共に(主として羊と山羊の)家畜飼育が営まれた。羊飼いの役目は、群れを毎朝牧草地に連れ出して食べさせ、水を与え、かつ夕方には囲いに連れ帰ること、および昼夜を分かたず、野獣や盗賊から群れを守ることであった。このため『羊飼い』『牧者』は、しばしば『支配者』の、あるいは自分の民を『子羊』として守るヤハウェ(イザヤ40:11)の比喩となった(イザヤ56:11、エゼキエル34:2など)。新約ではイエス自らが『わたしは良い羊飼いである』(ヨハネ10:14)と語り、それがキリスト(ペトロ2:25、5:4)に適用されている」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店 2002、引用部分執筆:佐藤研)
2.「羊飼い」という言葉は、聖書の世界では特別な意味を持っている。米作で食・経済が成り立っているモンスーン地帯のアジアではその感覚が直接には響いてこないことが多い。比喩をもう一度、風土や文化で翻訳することが必要であるかもしれない。
羊の所有者が自ら羊を飼うことも多かったが、裕福な人達は、雇い人を用いて牧畜をさせていた。雇い人の例がヨハネ10:3以下。雇い人とは当時のいわば下層労働者であった。
ヨハネでは雇い人は悪く言われているが、ルカの「イエスの降誕物語」では「救い主の誕生を真っ先に知らされた者たち」となっている。底辺の労働を担いながら貧しく慎ましく生きている者たち、つまり金持ちの対極で人間性を示している者たちへの祝福が描かれている。
彼らの仕事は牧草地を探すことであった。時としては遠隔地への移動もあった。乾燥して暑さの厳しいパレスチナで、水の少ない中、水辺を探すことも大仕事であった。野獣から群れを守るのも大変な労働であった。杖(堅く先の太い棒)を野獣の来襲に備えて持ち、これで撃退を図ったものと思われる。投石器なども持っていたと記されている(ダビデの物語サム上17:40)。羊は普通50〜200頭くらいが群れとして飼われていたが、さらに北アラビアには400頭という数が知られている(『聖書大辞典』教文館 1989)。
3.羊飼いと羊の関係が、神と人間との関係の比喩として用いられたのは、養う者、養われる者との関係の体験の日常的密接さによることであろう。時としては命がけで羊の群れを守った羊飼いの話などは、ことさらに語り伝えられたであろう。
4.ヨハネは「良い羊飼い」でイエスの生涯を象徴させ、「羊のために命を捨てる」というイエスの十字架の死を象徴的に語っている。また「囲いの中にいない羊」(ヨハネ 10:16)で「神の選民」という伝統的ユダヤ人思想に対する批判も語っている(19節以下にユダヤ人の拒否反応が記されている)。
これは信仰を人格関係の問題としないで律法の問題にしていることへの批判である。
人格関係とは何か。「羊のために命を捨てる」という、羊飼いの羊への関係の持ち方に象徴されているのはないか。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8:34-36)
これは逆説である。逆説は、論理であって論理ではない。体験され、経験され、感得されるべきことである。
5.現代日本では通り魔事件が頻繁に起きている。愛された経験を感得出来ないままで、また生存の根底を支える関係を感得出来ないままで、放置されるような、教育や社会や政治の態勢の根本を省みなくてはならないであろう。このような事件に出会うごとに「生きていて良いのだ」という実感を秘めた家庭・教育・社会が実現されることを祈り願う者である。
詩編23編が、精神文化遺産となるような意味で、聖書の世界を真剣に生きてゆきたい。
同時に命がけで、仕事に打ち込んでいるプロフェショナルな人達への尊敬を覚えたい。