良い贈り物(2007 礼拝説教・ヤコブ・受難節)

2007.3.4、明治学院教会(64)、受難節 ②

(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん73歳)

ヤコブ 1:13-18

1.ヤコブの手紙は、ズームの広角と望遠のレンズを兼ね備えたカメラのように描写をする。

 ある箇所では、大胆に具体的であり、別な箇所では、格言や諺のように一般論が語られる。これは回状であった。「公同書簡」の性格のゆえであろう。

2.「神に誘惑されている」(13節)はカッコがついているので、どこかの教会の誰かの発言。これは欲望の自己正当化を意味する。

”ペイラゾー”は試練とも誘惑とも訳される。「試練」と理解すれば、こちらの主体が呼び覚まされて、神との関係が深められる。「誘惑」ととれば、相手側(神)に責任をなすりつけ、関係を閉ざすことになる。

「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(15節)はその閉鎖関係の結末。聖書は「アブラハムの試み」(創世記 22章)も、「40年の荒れ野の旅」(申命記 8:2)も「試練」として、神を深く知る機会とした。

3.パウロは、人はみなキリストの罪の贖いを信じることによって救われる(信仰義認論)ことを徹底して述べた。

 しかし、ヤコブの時代には、この信仰(救済論)を理屈にして、「行いは何もしない」という自己正当化をする人々が出てきたに違いない。

 これでは救済論が泣く。ヤコブは次のように切り返す。

”行いが伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです。”(ヤコブ 2:17、新共同訳)

 そして、救済論ではなく、創造論に遡って「恵み」を語る。

”良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。”(ヤコブ 1:17、新共同訳)

”御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました”(ヤコブ 1:18、新共同訳)

 創造が「救い」の根底にあるという。

 ヤコブは「イエス・キリスト」を二度しか使わない(ヤコブ 1:1、2:1)。

 信仰の論理は、自分を神との関わりで見つめ直すのが、本来の役目。どんなに立派な信仰の論理でも、自分本位の正当化、自己絶対化のために用いられるなら、それは本来の信仰の論理ではない。

 ヤコブが信仰義認の論理を用いないのには訳があった。彼はむしろ、神は良きものを皆お造りになったのだと、創造の恵みを語る。

 救済論は背後の論理として隠される。罪の自覚とその救済を説く宗教は大事だ(パウロや親鸞の教えなどを含め)、しかし、客観的に万能ではない。

 ヤコブは「キリスト者」を「造られたものの初穂」という理解をする。

「初穂」は「神への帰属」を意味する。

4.カトリック作家・遠藤周作に『私が・棄てた・女』という作品がある。

 主人公ミッちゃんは、無垢な存在として、初めから神がいまし給うという、神の痕跡を映し出している。一方で、罪からの救済を求める人物を配しながら、神の初めの秩序、創造論の中の人物を描く。

「もし神が私に、一番好きな人間はときかれたなら、私は、即座にこう応えるでしょう。ミッちゃんのような人と。」

 彼女を囲む修道女はそう語る。

 救済論的鋭さよりも、創造論的「おおらかさ」を感じさせる作品である。

 神から来る贈り物という素朴な、おおらかな信仰を大事にしたいと思う。


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