2007.3.11、明治学院教会(65)、受難節 ③
(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん73歳)
ヤコブの手紙 1:19-27
1.「御言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ 1:22)はヤコブの中心的メッセージ。
2語から構成される。
「言葉(ロゴス)」と「実践者(ポイエータイ)」。
通俗のギリシア文化では「演説家、雄弁家」程度の意味。
ヤコブの手紙の著者は、ユダヤ系キリスト者で、言葉と行為を分離しないセム語系文化を継承している。
それは「神は言われた。『光あれ』こうして光があった。」(創世記 1:3)のように言葉即行為の文化である。
2.詩人の川崎洋さんは(『ことばの力 ー しゃべる・聞く・伝える』岩波ジュニア新書 1981)、半年の間に続けて両親を亡くした友達に詩を書いて欲しい、と二番目の娘、葉子さんにせがまれる。
「Mさんへ、おじさん(私)には Mさんの悲しみの深さが 半分だけわかります おじさんも18歳の時に 父を亡くしているからです でもご両親を失った嘆きが どれほどであるのか おじさんには今言葉がありません……Mさんの今の悲しみは うけつけてくださらないだろう? と思うからです……でも 一日を我慢して二日を我慢してください それが三日になり一ヶ月になり……そして5年がたちます そのとき きっと今とはちがいます……あなたと同じような人が たくさんではないにしても ほかにもいると思ってください あなただけが疲れないでください。」
詩の後半は「我慢してください」「思ってください」「疲れないでください」と命令文です。
しかし、それは「律法的」ではなくて「慰めの力」になっている。
この詩は、人は「言葉の実践者」でありうることを示している。
《行為は自ずから「超越的無意識」の世界に属するという、紀野一義エッセイ集『いのちのはな』(中山書房仏書林 1998)のスイス航空のキャビンアテンダントの話などを思い浮かべる。》
3.著者ヤコブは、律法が戒律であることからの自由を獲得していた。それは、イエスの言葉に「ことばの力」を感じ取っていたからであろう。
「言葉を聞いて、行う人と行わない人」(マタイ 7:24-28)をよく理解していた。
だから、律法を(パウロの文脈のように)否定的には用いない。
「自由をもたらす完全な律法」(ヤコブ1:25)という表現をする。
マタイ(11:28)と同じように「くびき(律法)」を「負いやすい」と積極的に捉える。さらに大胆に「このような人は、その行いによって幸せになります」(ヤコブ 1:25)と語る。
ヤコブ 1:26節以下は、「信心(舌、言葉、祭儀、お務め)」と「世話(孤児や寡婦が困っている時。申命記 14:20)」が分裂した現実の宗教者の有様を批判する。
古くからイスラエルでは共同体の世話体制は自分たちの責任と考えられてきた。
ヤコブ 1:27節の「守る」は「見張る」という意味。絶えず心掛けるという実践的生活のスタイル。
4.「不断の努力」は「普段の心がけ」と関係し、さらに「たしなむ」と通じるという(『ことばの道草』岩波書店辞典編集部、岩波新書 1999)。
「たしなむ」は『広辞苑』の編者である新村出(いずる)が「好ましい日本語」として挙げている言葉。
「ときにのぞんで見苦しく内容に不断に心がけておく」意味だという。
奥ゆかしさがある。
背後に、不断の修練を秘めつつ、「たしなみ」を漂わすような「信仰の生活」を心がけたい。
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