2007.3.18、明治学院教会(66)、受難節 ④
(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん73歳)
ヤコブの手紙 2:1-7
1.ヤコブ2章はリアルなお話。
イエス・キリストを信じながら人を分け隔てする兄弟たち(1節)。
”わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。”(ヤコブの手紙 2:1、新共同訳)
金持ちには慇懃に接し、貧しい人は適当にあしらう教会の集会の有様(2-3節)。
貧しい者を(金銭上の問題で)裁判所に引っ張っていく「富んでいる者たち」(教会の内・外の人を指す)の振る舞い(6節)。
紀元1世紀末の教会はこんな状態であったのだろうか。
しかし、他人事ではない。現代(の教会)とのアナロジー(類比)は、各人の想像に委ねたい。
例を挙げて語りたきことは多い。だが、自分が現代の「富める者」に加担していることの位置付けを抜きにして、このことは語れない。
「貧しくされた者たちの国」からの収奪で成り立っている先進国の一員であることを考えても、今「私の」存在が宿している「差別性」を重ね合わせれば、「だが、あなたがたは、貧しい人を辱(はずかし)めた」(6節)は、「私にとって」現実性を持つ。
2.「わたしの愛する兄弟たち」(2:5)は単なる儀礼ではない。
教会へのかなりキツい戒め・叱責・批判的な言葉が、なんとか届くようにとの相手への親愛の情が込められいる。
3.「よく聞きなさい(アクーオー)」(2:5)。
英語の聖書では、”listen”、”attend to”、文語訳聖書では「聴く」であり「聞く」ではない。聞きおく程度ではない。知識的に知っておくことではない。自分の尺度で解釈して聞くことではない。
自分の都合ではなく、相手の立場で考えること。己を空しくして聴き込むこと。聴くことで、こちらに変化が起こること。大胆に言えば、語り手と同じところに立って、一緒に事柄を担うことである。
そこに共に苦しむ、悩むことがなければ、語る者と聴く者の心の通いはない。
「よく聴きなさい」には祈りが含まれている。
4.「神が世の貧しい人をあえて選んだ」ということ。
聖書は貧しさに積極的意味を与えている。
ルカ福音書「貧しい人々は、幸いである」(ルカ 6:20)。
貧しい者が幸いにならないで、どうして幸いなどというものがありえよう。同時に、逆説的に、貧しさゆえに知り得た神の恵みがあるということ ー この両面を言っている。
「金持ちとラザロ」(ルカ 16:19以降)。
ラザロは”アブラハムのそばで”救いにあずかった。金持ちは「陰府」に落ちた。
パウロは「神の選びは、世の無学な者、世の無力な者、世の無に等しい者、身分の卑しい者」(Ⅰコリント 1:26-31)と言った。
”主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。”(Ⅱコリント 8:9)
5.日本の現実で「貧しさ」の問題にどう関わるか。
格差社会の構造を知り、絶対的貧困(生活できない)、相対的貧困(平均所得との比較)への認識を持ち、具体的に、その緩和・共生への関与を自分の生活とどう関わらせるか。
橋本俊詔(としあき)『格差社会 ー 何が問題なのか』(岩波新書 2007)。新自由主義的、自由競争原理の方向か。それとも共生の方向か。
6.貧しさが共生にとって逆説的意味を与えていることの象徴として「貧しき者としての神」。
「貧しき者をあえて選ぶ神」はいまし給う。
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