出会いの暖かさ(2007 礼拝説教・マルコ・受難節)

2007.3.25、明治学院教会(67)、受難節 ⑤

(牧会49年、単立明治学院教会牧師 2年目、健作さん73歳)

マルコによる福音書 14:1-9

1.マルコ14章15章は、まとまった「受難物語」。

 官憲のイエス殺害の計略から始まり、「塗油物語」が続く。

「塗油(とゆ)」、古代の宗教に見られ、宗教行事として、油を塗る対象を祝福して”聖”とする(王・祭司の叙任、死者の葬り、贖罪)、また、日常生活(健康、病気の治癒、美容など)に用いられた(キリスト教辞典、聖書辞典)。

「ナルドの香油」は最高のもの。インド産のナルドという植物から抽出される高価な香油。

「300デナリ」はブドウ園の労働者の”約1年分”の賃金。

 イエスの「塗油」物語は、マルコが原型で、ヨハネ(12:1以降)・ルカ(7:36以降)・マタイ(26:6以降)は書き換え、神学化された物語。

 しかし、原型よりも「香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った」「泣きながら、涙して」(ルカ 7:38)など、追加された情緒場面の方が人々に強い印象を残す。

”この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。”(ルカ 7:37-38、新共同訳)

2.原型であるマルコ福音書の大事な主張は二つある。

「一人の女(匿名、無名)が、……香油をイエスの<頭>に注ぎかけた」(マルコ14:3)と「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(マルコ 14:8)。

”イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。”(マルコによる福音書 14:3、新共同訳)

”この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。”(マルコによる福音書 14:8、新共同訳)

「頭」は「王(メシア、キリスト)」の叙任の象徴。

 女の「キリスト告白」を意味し、それが「受難のキリスト」であることを明確にしている。

 イエスの受難を理解しなかったペトロの政治的メシア理解の「告白」(マルコ 8:27以降)への批判を示唆。

 女性のイエスに「共苦」する存在が、世界中で「福音の記念」として語られる。

 さらに女性が「塗油」に携わることは、男性優位の父権性・祭司性への批判を意味し、男性戸主・シモンのもてなしを超越していることを示唆する。

3.シトー派女子修道院の自立と自己感情に目覚め始めた修道女たちが描いた(描かせた)「イエスに塗油する女性」の図(裏面)は「頭」への「塗油」を強調しながら、ヨハネ的女性を描き込む。そうせざるを得ない時代的背景を伺わせる。

4.受難物語ではイエスの孤独が際立つ。

 ペトロの裏切り、ゲッセマネの祈りでの弟子たちの眠り、裁判、処刑。

 この中で、塗油物語はイエスへの「出会いの暖かさ」を包含している。

 心を打つのは、すがりつくことではなく、頭と体に「塗油」し、苦難につながる、女性の「主体的従い方」である。

「キリスト告白(言葉)」が「受難のキリストに従う意志(行動)」へと深められている。

5.イエスは弟子たちに「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」(マルコ 8:34)と言った。

”それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。”(マルコによる福音書 8:34、新共同訳)

 この無名の女性は、自分の十字架という固有の苦しみを、ペトロより遥かに深い挫折の経験として抱いていたに違いない。

 だからこそ、そのような苦悩を携えて、イエスに繋がった。

6.神戸生まれの児童文学者・灰谷健次郎さんの作品に『太陽の子(てだのふあ)』(理論社 1978)がある。

 主人公のふうちゃんは、「沖縄」を生きる人生の悲しみ、死の苦しみに、キヨシを通して目覚めることで、人間のやさしさを知る。

 出会いの暖かさがある。

7.苦しむ隣人に「ナルドの香油を持って仕え」、そこでイエスと出会いたい。

8.祈り。

 イエスの苦難を思いつつ、自分の精一杯の「ナルドの香油」をもって生きることができるように導いてください。


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