マルコ16章1節-8節
2007.4.8、明治学院教会(69)、復活節第一主日(イースター)
(明治学院教会牧師2年目、牧会49年、健作さん73歳)
1.マルコ福音書の復活物語は大変短い。イエスの顕現がない。
まず三人の女性たちの墓参がある。政治犯処刑者「墓参」には勇気が要る。ここには、男の弟子たちの不在と裏腹に、マルコのフェミニズムの強調がある。しかし、16章8節「婦人たちは墓を出て逃げ去った。……恐ろしかったからである」と女性の弟子たちもイエスの「復活」に躓いたと読める(マルコ16:9以下は、後世の付加)。
2.マルコ福音書の唐突な終わり方の意味は何か。
女たちは挫折と追慕(過去)の時間に生きる。
しかし、福音書は「別な時間に生きよ」と指示する。
「あの方は、復活なさってここにはおられない。……あなた方より先にガリラヤに行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる」(16:6-7)と。
3.ガリラヤでお目にかかれるとはどういうことか。
メッセージは福音書物語のガリラヤの過去が、新しい将来に転換された事を示唆する。
マルコ福音書の読者は、もう一度マルコ福音書の初めからの読み直しを促される。
イエスの生涯と振る舞いにもう一度出会うことで、それが新しい時間の現在となる。
イエスが足の立たない病人に「起き上がり歩め(3:9)」と言った「奇跡」が再現されている現在に出会う。
弟子たちは、あの過去の不服従・失敗・誤解を赦され、自由の契機を掴む。ペトロはもう一度イエスに招かれて、弟子と成り直すことが許されている。
「お目にかかれる」(holao- の未来、直、複数:目で見る、見えるという意味)理解する、経験するという意味合いの濃い言葉。
4.かつて「説教」の不思議さを実感したことがある。
既になされた自分の説教を「説教演習」のためテープで聞き直したことがある。演習だと「聞いている」うちに「聴従」へと自分の位置が変わった。そこから励ましを受けた経験がある。
語る立場であった者にも「聴く」ことによる「恵み」があるというのは不思議な経験であった。
癌の末期を生きていた知人の牧師を遠隔のため見舞うことが出来ない中で「ご自分の説教テープを聴くように。きっとそこに『恵み』があるだろう」と励ましたことを忘れることが出来ない。
その意味では、説教とはイエスに「お目にかかる」教会的・日常的出来事「聴かれる」という「恵み」を宿している。
「復活」は、神による日常性(ガリラヤ)への回帰だと考える。
福音書物語の日常が「お目にかかれるイエス」(復活のイエス)を秘めている。日々新たに生きよと。
5.先週、図らずも一冊の追悼集の恵贈に与った。
『日々新たに生きる者でありたい − 夏目文夫弁護士を偲ぶ』(2007/2/28 川中宏・久米弘子・渡辺哲司編)。
主人公・夏目文夫は生後2ヶ月、小児麻痺で両足の力を失う。
高等小学校1年で差別に泣き明かす。「かたわ」は勉強せんでもよいという父親に逆らい、独学。17歳で辛苦の一年をかけて松葉杖から始めて歩行。21歳「専検」突破、涙する。
障害のゆえ弁護士志願に壁。受洗。同志社大学神学部から牧師へ。牧師を断念、学習塾で生活、独学で司法試験に合格し44歳で弁護士に。70歳を過ぎて転倒し脳挫傷、24時間全面要介護、8年間を病床・入院。81歳没。
座右の銘「辯護士の弁護士たる所以はその戦闘性にある」。
此の人も過去の退路を断って、日々新たに生きる人であった。
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