自分を見つける《マルコ 8:34-35》(1993 頌栄短大)

1993年4月27日(火) 頌栄短期大学チャペル
チャペル月報 1993年5月号 所収
復活節第3主日の週

(牧会35年、神戸教会牧師16年、健作さん59歳)

 皆さんは、アイデンティティーという言葉をご存じですか。

 アイデンティティーというのは、外来語辞書によると、正体、身元とか、同一人物であること、主体性、存在意識などと書いてあります。

 アメリカの精神分析学者のエリクソンが『幼児期と社会』(みすず書房 1977、仁科弥生訳)という本の中で、アイデンティティーとは、生まれた時からずっと自分だということの連続の意識、もう一つは周りの人から自分が受け容れられ、認められているという存在感を実感することである、と言っています。

 現代においては、アイデンティティーが失われている状態、神経症やノイローゼになる人が大変多いとも言われています。

 神経科の医者は、ずいぶん時間をかけてそういった方々のカウンセリングをするのですが、その人が自分自身というものをしっかりと見つめ、アイデンティティーを取り戻さない限り、お手伝いは出来るけれども、本当にその人自身の問題に立ち入ることは出来ないとも言っています。

 今日の聖書の箇所で、イエスは弟子のペトロに「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言っています。

 ”それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。”(マルコによる福音書 8:34-35、新共同訳)

 自分を捨てる、十字架を負う、とはどういうことでしょうか。

 これはアイデンティティーに関係があります。

 谷川俊太郎さんの『あな』(福音館書店 1983、谷川俊太郎作、和田誠・絵)という絵本の中では、ひろし君が庭に穴を掘ります。

 家族や友達からの言葉かけにも目もくれず、穴を掘り、手のひらにマメが痛くても、汗が耳の後ろを流れても、穴を掘ります。

 最後に芋虫に出会った時、ふっと肩の力が抜けて、そして穴の中に座って空を見ると、いつもより青く見えた。

 その中を蝶々が飛んでいる、その姿が美しかったと書いてあります。

 皆さんは手にマメを作って破れたり、肩の力が抜けたりする経験をしたことがあるでしょうか?

 そのような経験は大変大事で、その中で私たちは自分のアイデンティティーというものを段々深めていくことができるのです。

 世界中で一番アイデンティティーということについて、本当に深く、そのことを行っている、持っている、具現しているのが”イエス・キリスト”だと私は信じるのです。

 アイデンティティーのない保育者からは、アイデンティティーのある子どもは育ちません。

 本当に自分自身のアイデンティティーを持つ時に、子どもの中にあるものが、活きいきとしてきます。

 どうかこの2年間、イエスとはどういう方だったのか、ということを知り、アイデンティティーということについて、イエスが示してくださった後ろ姿を見ながら、自分で穴を掘り、肩の力を抜きながら、学んでほしいと思います。

 そして、自分を捨て、自分の十字架を背負って、ひとつひとつの困難を克服し、自分はこういう者だという”顔”を持って、この学校を卒業して、子どもたちの前に立ってほしい。

 その後ろにはイエス様がいらっしゃる、そういう保育者になってほしいと思います。

(頌栄短期大学チャペル月報 1993年5月号 岩井健作)


頌栄短期大学チャペルメッセージ(1986-2003)

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