1992.4.5、神戸教会
復活前第2主日・受難節第5主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)
(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)
ヨハネ19章は「そこでピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた」という言葉で始まる。
この「むち打ち」は、十字架刑の代案として行われるが、「イエスの死刑」を要求しているユダヤ人には通じなかった。
この福音書の成立当時の初期教会とローマ帝国との関係を反映しているせいもあるのか、ローマ総督ピラトに対して、好意的な雰囲気が漂う。
「この人になんの罪も見いだせない」とピラトは言う。
”するとピラトは、また出て行ってユダヤ人たちに言った、「見よ、わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、それはこの人になんの罪も見いだせないことを、あなたがたに知ってもらうためである」。”(ヨハネによる福音書 19:4、口語訳)
しかし、我々が注目しなければならないのは、2節・3節である。
”兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。そして平手でイエスを打ちつづけた。”(ヨハネによる福音書 19:2-3、口語訳)
一人の人への侮辱や嘲弄は、私的リンチとして密室状況で行われる。
「兵士たち」(ヨハネ 19:2)は国家秩序の中の命令で動く道具であるが、道具であればある程に、気晴らしとしての吐け口が必要になる。
過去、日本軍隊は、侵略戦争遂行の道具としての兵士たちに「従軍慰安婦」という吐け口を作って、反乱防止策とした。
現代の教育現場での「いじめ」も、親や教師の目の外で行われている。
陰湿な気晴らしが人間性を破壊し、人権を奪う。
例えば、建前としてのPKO(国連平和維持活動)協力法案が、軍隊としての自衛隊の増殖に繋がることになれば、反対せざるをえないのは、ここで言う「兵士たち」の存在に繋がるからだ。
ピラトは、兵士がなぶり者にしたイエスを前に立たせて、「見よ、この人だ」(ヨハネ 19:5)と言う。
”イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、「見よ、この人だ」。”(ヨハネによる福音書 19:5、口語訳)
「こんな哀れな男を死刑にしたいのか」との意味が言外に込められている。
しかし、ヨハネ福音書は、兵士たちの侮辱にさらされる「この人」に「神の栄光」を重ね合わせている。
ヨハネ福音書の”キリスト”は、この”二重性”を示している。
十字架にあげられることが、同時に、神の元にあげられる栄光である、と言う独特な”逆説”である。
だから、ピラトに対してもイエスは堂々と「上からの権威」を主張しつつ、実際には「死」に引き渡されてゆく。
バッハは「ヨハネ受難曲」の中で、この「二重性/逆説」を読み取っている。
”わが魂よ
痛ましい喜びと、重荷にしめつけられた心をもって
イエスの御苦しみに、この上ない幸いをみなさい
……
イエスの御苦しみから
多くの甘い果実が生まれます
だから、片時も目を離さず、彼を見つめなさい”
この序章に続いて、ヨハネ福音書19章の聖書テキストが歌われる。
イエスをじっと見つめる……そんな心の生活を深めていきたい。
”すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。そこでピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。”(ヨハネによる福音書 19:15-16a、口語訳)
(1992年4月12日 週報掲載 岩井健作)