ピラトとは誰か《ヨハネ 18:33-40》(1992 週報・本日説教のために)

1992.3.29、神戸教会
復活前第3主日・受難節第4主日

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)

この日の説教、ヨハネ福音書 18:33-40「ピラトとは誰か」岩井健作


 「黒のアントは、白。けれども、白のアントは赤。赤のアントは、黒。……」

 (アントは「対義語」”アントニム”の略)

 太宰治は”アント”を探すことで、そのものの実体を掴もうとしました。

 しかし、太宰は罪の対義語を探そうとして苦しみました。(『人間失格』)

 「罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と……嗚呼、みなシノニムだ、罪の対語は何だ。」

 (”シノニム”は「同義語・類義語」)


 さて、私たちが教会に通い、また聖書を読み、祈りを捧げ、讃美歌を歌い、人々と交わりをもち、奉仕をし、社会活動に参加するのは、何のためでありましょうか。

 その問いを突き詰めていくと、「神を知るため」と言えます。

 人間の観念に抱きこまれた神ではなく、自分の存在を包む神。

 そして、聖書は、神を知ることは「イエスに従うこと」だと指し示します。

 「イエスとは誰か」

 この問いは、信徒も求道者も、永遠の問題でありましょう。

 その意味では(太宰に倣って)「イエス」の対義語を探し出すことが、イエスを知る手掛かりになります。


「ポンテオ•ピラトの面前でりっぱな証しをなさったキリスト•イエス」(第1テモテ 6:13)と記されているように、ローマ総督ピラトはイエスの対義語の一つです。

 ヨハネ福音書18章28節〜19章16節は、イエスとピラトとの対照が鮮やかなテキストです。

 共観福音書(マタイ 27:11-26、マルコ 15:1-15、ルカ 23:1-26)と比較するとヨハネの特徴がよく分かります。

 ヨハネの中心主題は「イエスはユダヤ人の王なのか?」を巡って展開されます。

 ピラトは、祭司長たちがイエスを訴えているのは、ユダヤ教の宗教問題であり、彼らの妬みであり、自分は中立である、という立場に立とうとします。

 ユダヤ人たちは「けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった」(ヨハネ 18:28)とあるように、自分の立場に明確です。

 ピラトの方が、官邸を出たり入ったりします。

 引き裂かれたピラトの状況をヨハネ福音書は記しています。

 イエスは「ユダヤ人の王」が何を意味するか明確にします(ヨハネ 18:36)。

 ”イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。”(ヨハネによる福音書 18:36、口語訳)

 「真理についてあかしをするために生れ」(ヨハネ 18:37)は、ヨハネの中心テーマです。

 ”そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。”(ヨハネによる福音書 18:37、口語訳)


 ピラトは、内と外とを出入りする「不決断の人」として描写されています。

 中立であろうとして、結局は意思に反してイエスを十字架につける側になりました。

 イエス(真理、神)に関しては、従うか否かが問題で、いわゆる中立はないのです。

 さて、「ピラトとは誰なのか」。

(1992年3月29日 本日説教のために 岩井健作)


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