(後半)1988年3月27日 「兵庫教区報」 No.66 所収
(神戸教会牧師10年目、健作さん54歳)
「とらえなおし」の根源
沖縄と「本土」とを、その関係史で捉えるならば、沖縄は「本土」によって、侵攻され、支配され、「本土」へと組み込みをされてきた歴史を厳然と担っている。「され」続けてきた現実があるならば、「して」きた側があるのは当然であるが、この自覚は「本土」側には希薄である。何故そうなのだろうか。
このことは「合同のとらえなおし」の課題の奥底深い部分にも関係していると思われる。「加害と被害」「支配と被支配」「差別と被差別」「大と小」という関係においては「され」る側の意識がより先鋭であることは、痛みと傷の大きさから当然のことである。加害や差別や支配の側の位置は、「された」あるいは「されている」側からの逆照射や告発によってこそ顕にされる。「合同とらえなおし」の場合もそうであった。年表でみてもわかる通り、1969年の「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同」は、1977年7月の常議員会において、社会委員会提案の「沖縄教区へ教団問安使(もんあんし)派遣に関する件」によって「とらえなおし」に火がついた。その提案理由の一節には「最近の沖縄軍用地法案などを見ても、本土が沖縄に犠牲を強いることによって、沖縄の人々の生活を脅かしている現実は、いささかも改善されず、むしろ一層の皺寄せが行われている事実が突きつけられている。ここでもう一度、合同が、われわれにとって何であったのかを問い直し、問題を共に担う姿勢を再確認する必要がある」とある。自分の土地が米軍基地に強制使用されていく問題は、その土地所有者が、生活の基本権を侵されることと同時に、戦争体制の加害者性を担わされることを意味しているのであれば、政治レベルの問題を超えて、人間としての倫理に関わる事柄であった。「命こそ宝(ヌチドゥタカラ)」は沖縄の人たちの生活感覚の根底から出て来ている言葉であることは、絶えず聞かされてきたが、そこから「本土」そしてそこに成立してきた教団が逆照射されることが「とらえなおし」の根源なのである。
沖縄の「ものがなしさ」
3年ほど前、石垣島を訪れて、白保のサンゴが新空港建設で埋め立てられることに反対している人々を現地に訪ねる機会を与えられた。白保にはたった一枚、反対の意志表示をする小さな看板があった。「人は海から来る」。昔から交易を中心に生きてきた琉球の人々の心が刻まれているような言葉だと思った。海を超えての交易によって培われた琉球の生活感覚や文化が、本土の家父長制が強い人間関係の中での文化とは違ったものを持っているという話も聞いた。最近はそういうものまでが「本土化」「日本化」されていくという。「天皇訪沖」はその最たるものであった。最も「本土」的である天皇制国家体制を、自ら内なる問題にまで引き込んで、内側から沖縄の主体性を問い、そのアイデンティティーを形成する戦いをしているのが沖縄の人々の現実である。
沖縄の著名な作家・大城立祐(たつひろ)氏は、全国向けの新聞や雑誌から「本土同胞に訴える」体の文章を、よく注文されるという。しかし、この類の文章を書いていくら訴えても、本土は改まらないという挫折感が強いという。最近の同氏のエッセイは全国向け、我われ「本土」向けではなく、むしろ沖縄人内部へ向けられている。同氏には『現地からの報告・沖縄』(月刊ペン社 1970)、『同化と異化のはざまで』(朝日新聞社 1972)というエッセイが二冊ある。どちらかといえば、沖縄からの訴え・告発という含みがあるが、第三冊目のエッセイ『沖縄、晴れた日に』(家の光協会 1977)は告発の大論説ではなく、沖縄の日常が記されている。この書名について「ひとつの願いを込めたようなものでもあるが、例えば南部戦跡は晴れた日にもものがなしさは消えないのだ」(p.287)と述べている。この「ものがなしさ」を受け止める感性を我々は持ち合わせているのだろうか。確かに「本土」にだってものがなしいことはたくさんある。しかし、沖縄の風土と人々の心に刻み込まれた「ものがなしさ」は、やはり我々が抽象的に取り込んだり、理解したりは出来ない。それは沖縄と「本土」との関係史の、我々からから言えば向こう側を、丁寧に辿ることを通して、共感していく以外にはないであろう。このような視点から言えば「合同のとらえなおし」が提出している問題は根が深いことである。
「千里の行も足下に始まる」と言われるが、教団レベルでは「日本基督教団成立の沿革」に沖縄キリスト教団との合同を含めての加筆や、沖縄キリスト教団との合同により教団「信仰告白」の在り方を検討することが始められている。教区では沖縄教区との交流を人の往き来から一歩深めていくことが今後の課題となるであろう。
(岩井健作)
