神戸教會々報 No.159 所収、2000.10.8
(健作さん67歳)
沖縄交流の旅(その背景)
かねてより計画されていた神戸教会社会部の沖縄交流の旅は恵みの内に終えることが出来ました。企画、実施を担当した委員諸氏の労にまず感謝いたします。
旅の背景について述べておきたいと思います。
神戸教会は、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(1967)に基づき、遅ればせながら、神戸教会史を省み、また教会の社会や国家への関わりについて、聖書やイエスの存在、福音の視点から見失ってはならない事柄について思いを巡らせてきました。
その一つに、沖縄が本土との関係で抱えている問題があります。
このことは、近代の日本の歴史の中で、沖縄の側からの叫びを聞くまでは、気がつかなかった問題でもあります。太平洋戦争下、凄惨な地上戦で12万人もの沖縄住民の犠牲者を出した沖縄戦は、米軍の本土上陸を引き延ばし、国体(天皇制)護持の為に取られた手段であったことなど、私たちは後から知らされました。また、戦後世界の米ソ対立の冷戦構造の中で、沖縄が米国の施政権下に置かれ、沖縄住民は米軍基地によるあらゆる面での生活と生命への危機に曝されたこと、1972年の施政権返還後も基地は強化され、生命の侵害は続き、そしてアジアや世界の諸民族に対して基地を是認すれば戦争の加害者の立場に立たせられざるを得ない苦悩など、沖縄で苦しむ人々の叫びとして聞かされました。
「沖縄と本土」という関係の中で固有に捉えなければならない問題は、現在も益々根深く複雑に潜行している問題であります。そのことへの理解を深め、沖縄の文化に少しでも触れることが出来ればということを願ったのが、この度の旅の目的であったと思います。
沖縄と本土との問題では、教会(教団)が教会としての領域で取り組まねばならなかった問題があります。それは「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同のとらえ直しと実質化の推進に関する件」(1984年 第23回教団総会修正可決)です。日本基督教弾は1941年戦時下、国家の宗教統制のもとで30余派のプロテスタント教会が統合して(させられて)出来ました。その時、沖縄の教会も九州教区 沖縄支教区となりました。
沖縄戦を経て、戦後沖縄の教会は壊滅状態となり、米軍による捕虜収容所の中で生まれた礼拝が基になって、沖縄キリスト教連盟、沖縄キリスト教会、沖縄キリスト教団と発展し、1969年、日本基督教団と合同するに至りました。しかしその合同が、対等な教会合同というより、合併・吸収に近い「合同」であり、1972年の施政権返還時の「日本本土政府」の沖縄への対応と質的に似通ったものを持ってしまったことを沖縄側の指摘により気づかされ、そのことを受けとめるために「合同」のとらえ直しの作業が始められました。
作業には幾つかの面がありました。制度的な面で対等性を位置付ける為「名称変更」、「教憲」「沿革」「創立記念日」などの改訂、「信仰告白」の再検討などです。
また宣教方策の面では、現在沖縄の教会が抱えている宣教の課題を共に担うということです。
特に、本土側が負わなければならない「差別」「抑圧」についての罪責の問題があります。
しかし、教団の諸教会には「合同のとらえ直し」は必要ないという考え方が根強くあります。合同は法的に正しくなされたのだし、元来「復帰」の性格を持った合同なのだし、沖縄と本土の宣教課題の違いは教会の本質から見て、福音伝道においては違いがあるわけではない。基地の問題を直接に教会の宣教活動に組み入れることは、教会の本来的働きを社会活動に従属させてしまうことだ、という見解です。
沖縄教区は名称変更について何年も討議を重ねて「教団名称変更議案」(1996年)を提出しましたが、未だに継続審議になったままです。神戸教会は1998年教会総会で、兵庫教区総会の要請に応えて、沖縄教区の名称変更議案を支持する決議をして、沖縄の宣教への連帯を表明しました。
その中には、1946年の時点で「沖縄支教区」を放置したまま、戦後教団の発足をしたことについて、沖縄への思いの至らなかった教会的あり方を率直にお詫びすることも含まれています。このお詫び、つまり「罪責の告白」は「沖縄教区」に対してなされていますが、事柄としては、沖縄で苦しんだ人たちへの気持ちと神に許しを乞う思いとが含まれていると信じています。
そのような長い長い経過の中で行われたのが、この度の沖縄交流の旅でした。
「沖縄で出会った人々」
最初の夕食を、私たちは、庶民的な牧志公設市場の二階食堂街で摂りました。
そこにわざわざ石川市から二時間かけて笹淵昭平牧師夫妻が逢いに来て下さいました。大阪いずみ教会を退任された後、小規模な石川教会に奉仕されています。
「沖縄は住んでみないと分かりませんよ」
「7月20日『基地はいらない人間の鎖 県民大行動』に参加しました。2万7千人の住民の意志は凄いものでした」
とその様子を話して下さいました。
後藤聡牧師は二日間、私たちのための「平和ガイド」をして下さいました。兵庫教区から移って、今は養護施設・愛隣園々長です。
「本土と違い、経済的貧しさからの入園児が圧倒的に多いですよ。施設を出て本土に就職して、差別に出会うのが悲しいですね」
と語っておられました。
新しく開設された「うふざと伝道所」の平良修牧師夫妻を訪ねました。家探しに苦労している時、不思議な導きで借りられ、
「借りましょう。お金はなんとかなる」
と感涙にむせんで歩みを共にされた信徒のお話をして下さいました。
コザ教会では、我々一行7名が主日礼拝を守った後、名嘉隆一牧師の司会で『未来への扉ー沖縄戦の証言』に執筆している信徒の方たち、諸見里安弘さん、名嘉文子さんなどの沖縄戦の「地獄」を告げる貴重な生の声を聴くことが出来ました。
名護市辺野古では「ヘリポート建設阻止協議会 命を守る会」を訪ね、震災の神戸から教団が送ったプレハブでは、嘉陽宗儀さんが、涙を流し、手を握って、
「祈ってほしい。私も神(キリスト)が正義を成し遂げ給うことを信じ、戦っている」
と迎えて下さいました。一同その場で、熱い祈りを捧げました。忘れられないひと時でした。
教区事務所では西尾市朗副議長にお逢いできました。
(サイト記)冒頭の写真は、交流の旅に同行した一色哲(あき)様(現在、帝京科学大学教授)と楚辺通信所の前での一枚です。