戦争責任告白の身体性(2014 奥羽・講演 ①)

2014.8.18-19、第30回 奥羽教区「教会と国家」セミナー

(日本基督教団教師、前明治学院教会牧師 -2014.3、81歳)

1.主題「国家か人間か、本気で人間からの思考を」について

1−1.今回のセミナーがおかれた状況

「日本国憲法」の前文の精神、第9条、第97条(基本的人権が最高法規を越える根本精神)の内容を一内閣の閣議決定で変える「解釈改憲」の暴挙が行われた。

「集団的自衛権の行使容認」は「立憲主義の破壊」であり、戦争可能な体制作りへの国の在り方の変更である。

 奥羽教区が安倍内閣・公明党に「集団的自衛権行使容認閣議決定への抗議」(邑原宗男議長)を送っていることは評価されるべき事柄。

1−2.「国家の安全保障」は逆コース

 今や、戦争・核・格差・環境・弱者などを含めて「人間の安全保障」が思考されている(国家のために「国民people」が犠牲になってよいとは考えない)時代。

・古関彰一(憲法研究者)『安全保障とは何か − 国家から人間へ』岩波書店、2013年9月
・上野千鶴子『上野千鶴子の選憲論』集英社新書、2014年4月。
 (国家は究極の合法的殺人・人権侵害の機関[戦争、軍隊、死刑])

 戦後の国民主権は実際はよい意味での「曖昧さ」にあった、政府は国家を明確(戦争への支配権)にさせた(内山節、哲学者)。

1−3.“宗教”の宗教性

「国家の宗教性(愛国心・天皇制構造など)」を「宗教」が補完するのか、克服・相対化するのか、「“宗教”の宗教性」が問われている。

 戦争責任への問いは、個々の責任主体を明確にする意味で、国家の宗教性(集団の狂気)を問う営みの側面を持つ。

 横須賀久里浜病院 名誉院長、河野裕明氏[精神科医、カトリック]の国家の宗教性と対峙する精神科医を位置付け、さらに「断酒会」の持つ「宗教性」が人々をアルコール依存症から解放する現実に注目(なだいなだ『神、この人間的なるもの』岩波新書 2003年)。

2.教団戦責告白の由来・経過

2−1.由来

「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」の由来(拙著『兵士である前に人間であれ - 反基地・戦争責任・教会』ラキネット出版 2014年、p.131 「教会の戦争責任とわたし」参照)。

2−2.日本基督教団の成立事情。宗教団体法(1939) による

 宗教を戦争協力させるための国家統制による成立(エキュメニカル運動などの内因的動機は当然あったが、天皇制国家への屈伏)。
(参考)
・笠原芳光・森岡巌『キリスト教の戦争責任』教文館 1974年
・土肥昭夫『歴史の証言』教文館 2004年、p.198f.
・『日本基督教団資料集 第四巻』1998年、p.326

2−3.教団の宣教理解の変遷

 新日本キリスト運動の挫折(300 万人救霊運動・ブームに乗った教勢拡張運動、教義の布教。明治期は封建制天皇絶対制国家[家思想]からの近代主義個人の覚醒の役割を担ったが、天皇制批判の社会批判までには至らず[天皇制に屈伏して]観念領域での救済にとどまった、戦後もその手法を用いたが失敗)。

 1950年代、WCC(世界教会協議会)の影響を受け、あるいはクレーマー、ボンへッファーの神学の影響があり、「世に仕える教会」「世の苦悩を負う教会」「神の宣教(ミッシオ・デイ)の神学」を根拠にした宣教論に、戦後教団指導世代が転換する。

 その神学の現実性を獲得するためには、過去の戦争協力に反省が必要。
・1961年「日本基督教団の宣教基本方策(体質改善論・伝道圏伝道の二本柱)
・1962年「憲法擁護に関する声明(宣教研究所)」

2−4.戦責告白

 1966年、第17回 夏期教師講習会での若手教職からの「教団の戦争責任を公にする件」について発言があり(岩井、渡辺、山岡、内藤、大塩)、鈴木正久校長(伝道委員長)が受けて立ち、1967年、第14回 教団総会に建議、常議員会付託で、19対2で可決、議長名で「……責任についての告白」として、発表された。

2−5.5人委員会

 すぐに反対意見が出て、教団分裂の危機に直面、「5人委員会」が調停して、政治的・表面的には、一応おさまったが、いわゆる「教会派」「社会派」の色分けがなされ、1969年「万国博覧会キリスト教館出展問題」について、若手教職・学生からの問題提起があり、特に東京神学大学 全学共闘会議結成(1969年9月) 、9・1(常任常議員会席上での物理的暴力)事件発生、教授会声明(9月3日)、1970年3月、大学側による機動隊導入。

 後に福音主義教会連合が結成され、教団政治の主導権争いが表面化。小島誠志議長3期のあと、福音主義教会連合から山北宣久議長が選出され(4期)、教団の保守主義(信仰告白・教憲教規堅持路線)が政治路線となり「荒れ野の40年」宣言で、戦責告白は、実質上「無機能化」される。

3.「戦責告白」の功罪

(参照『兵士である前に人間であれ - 反基地・戦争責任・教会』岩井健作 p.137f.)
・功:アジアの諸教会との対話。「われわれ……」への参加の促し(個人主体の明確化)
・罪:言葉化による観念化(特に「信条・信仰告白」という言葉の宗教の盲点。聖書の教義的読み方に通じる)

4.身体性

 身体性(養老猛司「言葉の身体性」。言葉と経験の互換性において、身体性とは経験が一歩先んじるということ)

・「告白」は「言葉」にアクセントをおいたリズム。
・「身体性」は「体・経験」にアクセントをおいたリズム。
・「神の宣教(ミッシオ・デイ)」の特徴、歴史の出来事にアクセントをおいて参与する。

 福音を神の一回的出来事(啓示)に収斂させない。そこは帰着点。聖書の歴史批判的解釈を成立させる。「福音」を「文学」で語るマルコの立場の強調(田川建三)。

 人間の歴史に現実として関わる。

 これに対して『改定 宣教基礎理論 第一次草案』(2012年7月、p.17)「世界史はそれ自体には究極の意義はなく……カルヴァンがいみじくも述べているようにその上で救済史が演じられ、……「神の栄光の舞台」とよばれるべきもの……」では、救済史が一般史を凌駕するゆえに、「伝道」が第一義的になり、イエスの歴史的足跡の弱者・被抑圧者・貧者との共生への追従は第一義的ではなくなる。

 宣教とは共に生きること。

 神奈川また、奥羽で語る「福音」と、沖縄で語る「福音」の明確な違いは身体性から来る。

前日の奥中山教会(岩手)礼拝説教「それでも弟子の足を洗うイエス」

命漲る。 奥中山教会、カナンの園(2010 望楼12)

“合同のとらえなおし”は今なお生きている(2014 奥羽・沖縄・講演 ②)