信仰、自らの生き方《Ⅰヨハネ 1:1-4》(1988 説教要旨)

1988年5月1日、復活節第5主日
(説教要旨は当日週報に掲載)

(牧会30年、神戸教会牧師11年、健作さん54歳)

ヨハネの第一の手紙 1:1-4、説教題「信仰、自らの生き方」岩井健作

 ”わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる”(ヨハネの第一の手紙 1:3、口語訳)


 今回から何回か「ヨハネの第一の手紙」を学びます。

 この文書は、言葉とそこに述べられている内容や雰囲気が「ヨハネによる福音書」との間に共通性を持っています。

 執筆された動機や目的は、著者の教会が直面していた、グノーシス(当時の思想傾向の一つで、覚知主義)的な信仰理解に対して反駁(ばく)を試みたもの、とされています。

 時期は紀元1世紀末から2世紀初めで、場所は「ヨハネの教会」が活動していたシリアから小アジアという説が有力です。


 この手紙は「正統と異端」というパターンで見れば、正統の立場から異端を論駁しているように、白黒がはっきりしている文書です。

 しかし、思想の問題というものは、外科手術のように、悪いところを切って捨てればよいという形では扱えません。

 そのように扱うとしたら、そこにこそ危険があります。

 というのは、白黒はっきりしないで重なり合っている部分をどう活かすか、さらには黒である部分とどう関わるか、そのために白であることとは何か、をもう一度含めて問い直す営みこそ大事なのだと思います。


 1章1節〜4節を読んで、この著者の「わたしたち」と「あなたがた」という言葉の使い方の流動的なことに気づかされます。

 著者は「イエス・キリスト」のことが全然問題にならない人たちに、何かを「告げ知らせる」と言っているのではありません。

 ここの「あなたがた」は仲間であり、読者であり、教会共同体の肢(てあし)でありながら、あえて「わたしたち」とは区別された「あなたがた」です。

 私もあなたも同じ教会だ、だから仲間だ、という程度の「交わり」なら、既にあるのです。

 しかし、著者はあえて「あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである」と告げ知らせます。

 ”すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。”(ヨハネの第一の手紙 1:3-4、口語訳)

 3節後半の交わりの定義を述べる「わたしたち」には読者も含まれていると理解できます。

 つまり「わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」と祈りを込めて当然なことを語りかけます。

 イエスを中心的に求め、そこでつながる交わりをこそ目指していく真剣な「告げ知らせ」を失った時、教会は活力を失うでしょう。

 何故なら信仰は、自らが問われる生き方そのものですから。

(1988年5月1日 説教要旨 岩井健作)


1988年 説教・週報・等々
(神戸教会10〜11年目)

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