1988年5月8日、復活節第6主日、母の日
(説教要旨は当日週報に掲載)
(牧会30年、神戸教会牧師11年、健作さん54歳)
ヨハネの第一の手紙 1:5-10、説教題「常に途上」岩井健作
”もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる”(ヨハネの第一の手紙 1:9、口語訳)
前回、1章1節〜4節のキーワードは「告げ知らせる」だと申しました。
「わたしたち」と一応は言ってよい信仰共同体の仲間の中に、もう一度、他者性をもって語るということは、自明の教えや定義を唱え直すということではありません。
相手が自明のこととして安住している、考え方や思考のマンネリ化を、その内側から破ることです。
5節で「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれはこうである」という場合の「おとずれ」は、自明のことの繰り返しではなく、相手が固定化してしまっている「神は光である」という考え方の盲点を破ることでした。
”わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。”(ヨハネの第一の手紙 1:5、口語訳)
自分たちは光の中を歩いていると主張するグノーシス化された「偽教師」の実態を、注意深く見つめることから始められねばなりませんでした。
著者は「神は光である」という前半の句で、相手もそのように言っている自明の理(ことわり)の内側に入り込みます。
その上で「神には少しの暗いところもない」(5節)と言います。
ここではグノーシスの主張のように、光に対抗する闇が宇宙論的な力として考えられているのではなく、神に反抗する閉鎖性として考えられています(ブルトマン)。
暗いところがないのは「神には」なのであって、神に委ねてこの世の闇を、その光の下に終末論的に見ていく限り、闇は光に照らし出されてしまうということです。
ここでは、罪は闇と同義ではありません。
自分の罪は、告白して神の真実に寄り頼んでゆるしきよめられるものとして捉えられています。
その意味で「神には(人にはでなく)暗いところがない」(5節)と言われています。
「神は光である」(5節)という叙述は、単に神についての説明や定義ではなく、光の中を歩むこと、光に照らされて浮かび出てきた自分の罪を告白してゆるされること、そのことを目指して、人と交わりをもつこと、この一切を一気に含んでしまっている叙述なのです。
あたかも光を理解しているかのように思っている自分自身への欺き(8節)から解放され、自分の虚しさを自覚し、神に(光に)向かって歩み続ける《途上性》に目を開かれる時に、初めて、そうも言いうる言葉です。
定義として一人歩きをする句ではありません。
「光」は所有物ではなく、信仰者の《途上性を支える根拠》です。
そのように、互いに語り合う交わりをヨハネは目指しています。
ヨハネが論敵とする「偽教師」の心のかたくなさやそれに惑わされたいわゆる「あなたがた」がどの程度に心の固い人間かは知る由もありませんが、その傾向を自らの内にも持っている自分をよく見つめて、このテキストを読むことが大事でありましょう。
(1988年5月1日 説教要旨 岩井健作)
1988年 説教・週報・等々
(神戸教会10〜11年目)