神を知るって、どんなこと《Ⅰヨハネ 2:1-6》(1988 説教要旨・ペンテコステ)

1988年5月22日、聖霊降臨日、神戸教会ペンテコステ礼拝
(説教要旨は当日週報に掲載)

(牧会30年、神戸教会牧師11年、健作さん54歳)

ヨハネの第一の手紙 2:1-6、説教題「神を知るって、どんなこと」岩井健作

 ”もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである”(ヨハネの第一の手紙 2:3、口語訳)


 「ヨハネ第一の手紙」を続けて学びます。

 2章1節〜6節を二つの部分に分けて考えます。

 3〜6節は、著者が相手を論駁、批判、説得している、いわば表の部分と言えます。

 それに対して、1〜2節は、その論駁部分の論理が、理屈として一人歩きしてしまわないように、整理、解説、歯止めをかけている、いわば裏の部分です。

 一つの主張、論理、イデオロギー、思想、神学などが、強力な完結さを持って唱えられると、知らない間にそれが自己絶対化の響きをもつことがしばしばあります。

 例えば、人生に迷う人が、ある日突然、某宗教や思想集団に入信・入会し、世界のことをスッパスッパと切りまくって、躁状態で行動しまくる、といった如きです。

 そこまで行かなくとも、自分の論理体系に冷静なる自信を持って、世界を観る知的態度なども、その一環です。

 こういう人は、人の悩みも黙って耐え、共感するということ少なき人ではないでしょうか。


 ヨハネは、論駁相手の「知」のあり方を一応カッコで括って、それを相対化します(4節)。

 ”「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。”(ヨハネの第一の手紙 2:4、口語訳)

 彼らにとって、神についての知り方は、一つの特別な主張であり、ある完結さを持っていたのです。

 「知」の完結に対して、ヨハネは「神についての知」とは「知」そのものの中で完結するのではなく、「戒めを守る」「御言葉を守る」「彼が歩かれたように歩む」ということと結びついた、「知」の《未完結性、途上性、終末論的性格》を打ち出します。

 つまり、人の世は悩み多き世界であり、その悩みの究極的解決を「知」に取り込むことではなく、《悩みの共有》という「神の愛」そのものの現実的あり方に身をつなげること以外に、「神」を知る知り方はないことを主張します。

 しかし、初めに申しましたように、主張とか論理は、知らない間に自己絶対化に陥る危険があります。

 1〜2節は、伝統的な教義(「助け主」や「あがない」の神学)を用いてなされている歯止めです。

 ”わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。”(ヨハネの第一の手紙 2:1-2、口語訳)

 論理や思想、いわば言葉の営みは、それを支えている「愛」「関係」「ふれあい」に支えられていること、「神の愛」そのものが「知」を包んでいることへの自覚が「知」への足掛かりなのです。

(1988年5月22日 説教要旨 岩井健作)


1988年 説教・週報・等々
(神戸教会10〜11年目)

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