1976年4月4日 岩国教会週報「先週説教より」
ヨハネ6:47-57、第二コリント7:4-10
(岩国教会牧師12年、健作さん42歳)
神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔い改めに導き(第二コリント 7:10)
コリント第二の手紙のこの箇所は、パウロとコリント教会の人たちとの間の不信不和が和解へと解決した喜びの中で書かれている(7:4以下参照)。
不和の問題は使徒職に関することであった。しかし今はその内容には触れず、以下三つの点に目をとめておきたい。
① パウロの如き人生に相当の力量を持った人でも人間関係では「打ちしおれる者」であったし、神の(人間のではなく!)慰めを必要としている。神の慰めを必要としているという点で、その悲しみは死んでいないで活きている。金芝河(キムジハ)の詩を思い出す。
讃美歌
しばられた手の祈り
死の影差しこむ絶望の谷間に
夢でもしばられた血まみれの悲しい胸
正義に飢えて愛に飢えた
死骸(しかばね)の谷間を死ぬほどさまよう
おお主よ、来られて
鎖を解いてください。
(金芝河、中央公論新社版『不帰』p.349)
② パウロはコリントの人々を叱責する厳しい「涙の手紙」(第二コリント10-13章と推定される)を書いた。厳しいものを書いた後、の自責が見られる。しかしいつまでも悔いてばかりはいなかった。厳しさで奉仕する、ということは難しい。しかし救いの大きさが自責を包む時、悔いから解き放たれる。
③ 悲しみには二つある。活きた悲しみと死んだ悲しみと。活きた悲しみは神を求める。「情熱」(11節)を起こさせる。自己保身ではないところへ導く情熱(悔い改め)が、深い悲しみと繋がっていることは私たちには慰めではないだろうか。
(1976年3月28日 岩国教会説教 岩井健作)
(報告欄より)
共同の祈り「新入園児、教会員家庭・新入学者のために」
礼拝後、4月定例長老会
第20回 教会定期総会公告


