共に生きるために(1975)

1975年2月2日 岩国教会週報「先週説教より」

(岩国教会牧師10年、健作さん41歳)

すべての人のどれいとなった。…わたしも共に福音にあずかるためである。(コリント第一 9:19-23)

 「どれいとなる」とパウロが言うとき、それは精神的・宗教的意味である。実際に、60万の人口中40万の人間が社会的・身分的に奴隷だったところで、自由な身分の彼があえてこの語を使うところには、パウロの限界を感じる。三木首相が、国会の第一声で国民に「質素」な生活をせよと訓示する響きに通じるものがある。だが、パウロがこの語で言い表そうとする実践的意気込みといったものを見落としてはならない。罪のどれい(ロマ 6:6)という捉え方でしか表せない人間の救い難い姿に対して、罪から自由になれなどと物分かりの良い野暮な事は言わない。彼は、キリストのどれいとなれ、と言う。一面極めて危険な表現ではあるが、事柄を自分の理解の中に取り込み、実際は自分の問題に気付かぬ姿から脱出するための実際的な力を感じないだろうか。そこには長く苦しいパウロの内面的戦いの経験がにじんでいる。知的理解で先取りしてしまうコリント教会の人たちに、福音を、十字架の福音として示し、十字架の死に自己を結びつけることを通してでなければ共にあずかり得ないものとして示したパウロの鋭さを読まねばならない。「ユダヤ人にはユダヤ人のようになる」という。彼には律法の克服の問題は分かっていたであろうに、あえて、教師が問題児と共に荷を負い、生きることで再び教師であることを発見するように、一緒に生きることに打ち込んでいる。矛盾だらけの問題を負い、共に生きることの中に、福音にあずかることが含まれている。

(岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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