礼拝のある生活(1975)

1975年1月5日 岩国教会週報「先週説教より」

(岩国教会牧師10年、健作さん41歳)

あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。(ロマ12:1)

 この一句はパウロが礼拝というものを語った言葉である。礼拝と生活とが密着しないというのは、信仰者の耐えざる悩みである。礼拝を「供え物をささげる」機会と場として考える捉え方は古くイスラエル民族の信仰の伝統による。創世記に記されている族長たちは天幕による遊牧の生活をしていたが、行った先々で石で祭壇を築き礼拝を行った。ヤコブなどは、兄エサウと仲違いし一人寂しく砂漠を旅する中で、八方塞がりの時、神の使いの夢を見て、枕としている石をとって礼拝をした。「まことに主がこの所におられるのにわたしは知らなかった」と。礼拝が礼拝として成り立つ要素は、自我というもの、自分本位のあり方が砕かれることであろう。これは難しい。自分で判断する訳にいかないからだ。だから砕かれるという事は、言い換えれば、神の招き、呼びかけに応えること以外にない。創世記では礼拝のことを「主の名を呼ぶ」(創12:8)と言っている。だがこれも、私たちが呼ぶ前に、私たちを招き呼ぶ方があってのことだということに気づかねばならない(ロマ9:25)。赤ん坊が何も言えないのに、母親が呼びかけることが人格形成となると最近の心理学者が指摘するように、愛とはそういうものだ、としみじみ思う。存在の根底が支えられていることに気づくのが信仰である。礼拝と生活とを分けて考えると、生活にのまれる危険がある。「この世と妥協してはならない」という戒めを聴かねばならぬ。だがヤコブのように、生活とて石の枕一つしかないところでは、その石を礼拝の場とする以外にない。生活にも苦しみがあれば、その苦しみを礼拝の機会と場となしていくことこそ、礼拝の姿勢ではあるまいか。

(岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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