1974年8月4日 岩国教会週報
「先週説教より」《前週週報欠落》
(岩国教会牧師9年目、健作さん41歳)
知恵の言葉を用いずに(コリント第一1:17)
「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」(1:12)と、それぞれ指導者の特質と魅力によってグループが形成されたことは、教会の活動の一つの現れであるとともに、人間集団である教会が真の共同体へと成熟していくために避けて通ることのできない過程でもある。ただ人間中心的集団に過ぎたようだ。そこでどの党派にも偏らないで、原点に帰れと「わたしはキリストに」(1:12)という人々があった。ここで問題なのは、言っている内容はキリストであっても、それが結果的に自分自身の人間的高慢に置き換えられてしまっているところである。キリストを語りながら「自分の土俵」を作り、そこで相撲を取ろうとする。パウロは、自分の土俵作りをして勝負しようとする人々の問題点を「十字架が無力なものに」(1:17)なってしまうところに見ている。十字架抜きのキリスト、これをパウロは「知恵の言葉」(1:17)と呼ぶ。十字架とは「自分の土俵」の放棄から始まる。相手との関わりの中で、自分の設定した土俵を放棄し続け、いわば神の土俵ともいうべき枠組みに身をゆだねること(十字架により示された神の愛への信頼)を練られる場が教会である。コリント教会は、この道程を経て、分争(1:10)の教会から「神によって結び合わされた者の集い」へと向かっていった。
(1974年7月28日 岩国教会 岩井健作)


