ヨハネの黙示録 22:12-21
2015年12月13日(日)明治学院教会 待降節 ③ 信徒講壇 ㉑
(前明治学院教会主任牧師、健作さん82歳)
聖書 ヨハネの黙示録 22章12節-21節(新約479頁)
「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。(ヨハネ黙示録 22:20)
1、聖書のメッセージでは「神の招き」がまずあって「人間の応答」がそれに続く。この順序は決して逆ではない。例えば、「福音書」のペトロの場合も、イエスの「わたしについて来なさい」の招きがあって、ベトロの「従った」という応答が続く。
「恵みと受容」「神の義と信仰」「約束と待望」みな然りである。太宰治の作品「走れメロス」では、友人セリヌンティウスとメロスとの確固たる信頼の感動的物語である。王の人間の信頼への懐疑にも拘らず「待つ」という行為が成り立っている。「待つ」ことは単なる受け身ではなく、関係の受容的能動である。
2、ヨハネ黙示録も「然り、わたしはすぐに来る」(20) というイエス来臨の約束が告げられて「アーメン、主イエスよ、来て下さい」(20後半)という応答が続く。「来てください」という積極的切望、「待つ」という姿勢が語られるゆえに、古来このテキストは待降節の聖句として選ばれている。
3、ヨハネ黙示録には様々な表象が用いられいる。その読解には謎解きが必要である。この書は「皇帝礼拝」が強制されたローマ帝国ドミチアヌス帝時代のキリスト教徒弾圧と迫害の中での著作であるがゆえに、「黙示文学」(例えば旧約のダニエル書)の暗示のような表現形式をとる。作者はパトモス島に幽閉の刑の身でありながら、小アジア七つの教会の信仰を鼓舞する。今は闇であるが、新しい天地が出現し、神と子羊なるキリストが親しく信徒と共に住むようになる。義人の受ける苦難をイエスゆえの苦難としつつ迫害を酎え終末の救いに与かる者となれ、と励ます。皇帝の悪魔的支配は必ず滅び、神の支配が貫徹する。22章はその要約とまとめの部分である。
4、17節に注目したい。霊(預言者)と花嫁(7つの教会の代表)に示される司会者と、その会衆との礼拝での交唱が想定されている。「主よ、来てください」と司会者が叫ぶと、会衆が「来てください」と唱和する。著者は教会とは迫害の中でも基本的にキリストの来臨を、心して待つ存在だと理解している。「キリストの側からの約束に根拠づけられ、促されて、信徒の口をついで「主よ、来てください」が出て来ている」(佐竹明注解)。 「ヨハネ第一の手紙」の、良く知られた表現、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(4:19)と似た構造を持つ。黙示録は、ヨハネ第ーに比べれば、格段と歴史の状況が厳しい。「愛」という関係よりも、「待つ」というぎりぎりの主体的能動が強調される。
5、我々も闇の世を生きている。「アベ」は確かに「人の命」よりも「経済(お金)と軍事力」を大事にする。「アベ」を選び支える「多数の国民そのもの」、またそれをよしとする「世界の状況」は闇である。もちろん闘う市民・学生・民衆がいる。そして70年も闘い続ける「沖縄の民衆」は闇の中でも励ましを与える。しかし、その底に、一般化することはできないが、世に打ち勝ち給う主イエスの確かな存在があることに確信をおくのがキリスト者であり、教会である。そして「待つ」という生きる姿勢(終末論的生き方)を確かに証しするのがキリスト者の証しというものであろう。
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