引用「息づく《ベ平連》の記憶」(2015 インタビュー記事)

2015年11月6日(金)中國新聞(広島県広島市)文化欄

(文・石川昌義記者、健作さん82歳)

息づく「ベ平連」の記憶

 故鶴見俊輔さんと岩国
 長年交流 岩井牧師に聞く
 反原発や反安保、現在につながる


 2015年7月、93歳で亡くなった思想家・鶴見俊輔さんは「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)の活動を通じて、米軍基地の街、岩国と深く関わった。

 日本基督教団 岩国教会牧師だった岩井健作さん(82)=群馬県高崎市=に、鶴見さんが頻繁に岩国を訪れた1970年代前半と現在とのつながりを聞いた。(石川昌義)


 岩井さんの自宅居間には、1967年4月3日付の米紙ワシントン•ポストにベ平連が掲載した意見広告がある。「殺すな」のロゴは芸術家岡本太郎が手掛けた。岩井さんはこの広告をかつて、岩国教会の応接間に掲げていた。

 岩井さんが鶴見さんと初めて対面した場所は、教会の応接間だった。「鶴見さんは『ここにあったか』と大きな目を真ん丸にして驚いていた」。鶴見さんは1972年2月、岩国市内にオープンした反戦喫茶「ほびっと」の開店準備の合間に、ベ平連の若者と教会の日曜礼拝に訪れていた。

 ■ 訴えに兵士も共感

 岩井さんは広島流川教会(広島市中区)、呉山手教会(呉市)を経て 1965年、岩国教会へ赴任した。労組や政党と組んだ反基地運動に携わった岩井さんは、組織の論理が優先する従来の運動より、個人を重んじるベ平連に親近感を抱く。岩国ベ平連が基地で配る反戦新聞の印刷を手伝っていた。

 鶴見さんとの会合の場所は、ほびっとだった。岩井さんは「鶴見さんは若者の何げない一言をメモにしていた。一言に表れる思想の片りんを拾い出す感覚が、鶴見さんらしさだと思った」と懐かしむ。

 岩井さんは、鶴見さんと岩国市街をデモ行進したことがある。京都ベ平連の結成メンバーで農学者の飯沼二郎さん(2005年に87歳で死去)を加えた3人。「従来の運動の掛け声は『ヤンキー•ゴー•ホーム』。ベ平連は『GI•ジョイン•アス』。基地の中にも訴えに共感する兵士がいると分かった。イデオロギーではなく、人間を信じるようになった」と振り返る。

 ほびっとは1972年6月、過激派との関連を疑う警察の家宅捜査を受ける。無実を証明するため、鶴見さんが先頭に立った法廷闘争に岩井さんも協力した。ベ平連は1974年に解散。ほびっとの活動は1976年1月の閉店まで停滞期に入る。岩井さんは「形は負けても、まいた種はどこかで花開くと信じていた。失望はしなかった」と当時の心境を語る。

 ■ 送った著書に返事

 岩井さんも1978年、神戸教会(神戸市)に移る。岩井さんは自身の反基地運動をまとめた著書『兵士である前に人間であれ』(ラキネット出版 2014)を昨年7月、刊行した。

 鶴見さんに本を送ると、間もなく返事が届いた。丸い文字で

「拝復 『兵士である前に人間であれ』御恵送いただき、ありがとうございました。あの当時、私が岩国で見たこと、体験したこと、どれもが、まだ、昔のことだとは思いません。今、現在の日本に対して、そのまま、つながっていくものとして受け取めました。御礼申し上げます。草々」

 と書かれていた。

 鶴見さんが繰り返し語った「人民の記憶」という言葉を、岩井さんは思い出す。「記憶として継承されているから、折々で不意に浮かび上がる。全国各地で個人の危機感から出発している反原発や反安保関連法の動きに、『岩国の記憶』は結びついている」


反戦牧師 原点のヒロシマ」(2016 インタビュー記事)

中國新聞社アーカイブ


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