思いめぐらすマリア(1998.12.24 礼拝説教・ルカ・クリスマス讃美礼拝)

1998.12.24(木)、午後7時半、神戸教会、クリスマス讃美礼拝
/1995年1月の阪神淡路大震災から4年
(牧会40年、神戸教会牧師 20年目、健作さん65歳)

田中忠雄画伯「ダビデの歌」
 説教原稿は6枚。最初のページのみ掲載しています。

(サイト記:説教原稿をデータ化するのは難しいので、土台になっている1982年12月19日の神戸教会クリスマス礼拝説教をテキストで掲載します)


思いめぐらす

ルカ 2:8-20

しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。“(ルカによる福音書 2:19、口語訳 1955)

”しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。”(ルカによる福音書 2:19、新共同訳 1987)

 イエス誕生の中に「思いめぐらす」という言葉が2箇所出てくる。

 そしてその意味が際立って対象的である。

 一箇所はマタイ1:20。

 ヨセフは「神の救いの出来事」のしるしである幼な子の不思議な誕生を受け入れることに幾度となく思案している。

 ここでの「思いめぐらし(エンテュメオマイ)」は、原意が「激情」を意味するように、一つの決断に至るまでの激しい思案を示す。

 ヨセフは何度か戸惑い、この出来事を色々な文脈から受け取り直しつつ受け入れていく。いわば決断に向かっての思いめぐらしである。

 これに比べて、今朝の聖書日課テキスト、ルカ 2:19のマリヤの「思いめぐらし」は、沈黙のうちでの思いめぐらしである。

 羊飼いたちは不思議な出来事に出会って大いに語り合い、おしゃべりをした。それに対してマリヤは黙って考えていたというのが、冒頭の「しかし」の持つ意味である。

 ここの「思いめぐらす(シュンテレオー)」は、断片的なものを、損なわないように一つずつ大切に保つという意味で、沈黙のうちでの思考過程を示す。


 ここで私たちはクリスマスのメッセージとして沈黙をもった思いめぐらしの大切なことを知らされる。しかし、沈黙を教訓とするというような受け取り方をしてはならない(ファシズムも沈黙を強いるし、私たちが他人に構えをもって自己を閉ざす時も沈黙する)。

 マリヤが思いめぐらしたのは「これらの事(レーマ)」についてであった。

 この語は「事柄」と「言葉」の両義がある。つまり、体験されたことが言葉にまで結晶する全過程を大切にしている様がうかがえる。

「これらの事」とは「救い」の断片のいくつかであろう。

 私たちは「救い」の全体を掴むことはできない。神の救いが私たちを包んでいる。

 私たちは「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3、口語訳)のごとく、川全体を知らなくても潤される。

 今日洗礼を受ける兄弟姉妹も、救いの全体を理解した訳ではない。その断片に触れ、思いめぐらし始めたのである。

 マリヤとて羊飼いへの救いの告知の意味が分からなかったからこそ、思いめぐらした。

 私たちも現代の貧しき者、差別されている者に救いの告知がなされるという深い意味につき分かってはいない ー この点につき、李仁夏(イ・インハ)牧師の説教(キリスト新聞 1821号)は示唆に富む。自由な空間である「客間」に余地がなく、飼い葉桶に寝かされた者が救いの”徴”(しるし)であることを考えると、パレスチナ問題や少数民族差別を受けている人の”間”(あいだ)に救い主は身を置き給うのである。

 思いめぐらすことの恵みを生きるものでありたい。

 そこでの”いのち”を汲みとっていきたい。

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