1973年9月2日 岩国教会週報
「本日の説教より」ルカ13:20-21、ヤコブ1:25
「神の国を何にたとえようか。パン種のようなものである。女がそれをとって、三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる。」(ルカ13:20-21)
パン種(酵母)のたとえ話(ルカ13:21、マタイ13:33)では、発酵するパン種(酵母)が福音の比喩として用いられている。しかし、イエスの時代、パン種は"悪"の影響力の比喩として用いられた(コリント第一5:5-8、ガラテヤ5:9、マルコ8:15)。福音書でイエスが「神の国」の比喩として「パン種」を用いているのは何故だろう。聖なる領域から追放されてきたパン種において、逆に福音が宿り示されることに私たちは気づかねばならない。信仰や教会と無縁だと思われる日々の出来事の中に、福音のひらめきの逆説や徴(しるし)を見ることがなければ、礼拝での懇切丁寧な解き明かしも心に届かない。ラザロと金持ちの譬え(ルカ16:31)の如くである。
さて、パン種は、粉全体の中でよく練られて初めて発酵力をもつ。「混ぜる」という語のギリシア語は、聖書では意味深い言葉として「隠す、かくまう、密かに、混ぜ合わせる」等々に訳し分けられる。福音は個々の生活や経験とよく混ぜ合わせられて(人には分かってもらえぬような、密かな経験としても味わわれて)こそ力を発揮する。今自分が経験している事柄から逃げないで、その重荷をトコトンまで自分の責任として「今はこのことを」と負い続けることがなければ、信仰生活は綺麗事に終わると思う。
本日は9月2日。今から50年前、1923年(大正12年)のこの日、前日の関東大震災から1日経て、朝鮮人虐殺が始まった(『市民の暦』より)。
負うべき重荷を、この忌まわしき日本人としての体験にまで「混ぜ合わせて」考えるとき、私たちは福音の発酵力を見るであろう。
(1973年9月2日 岩国教会週報 岩井健作)


