くびき の ともがら

くびき の ともがら

神戸教會々報 No.127 所収、1990.7.8

(神戸教会牧師 健作さん56歳)

神が合わせられたもの マルコ 10:9


《わきあがってくるききたいだけの尋問を妻は口にし、その釈明をもとめ、とどのつまり、「あなたの気持ちがどういうものかよく分かりました。あたしはあなたへの愛を失ったとしか思えないから、どうか死なせてほしい」と言う。
「死なせろ、死なせろとおどしてばかりいる」とつい口をすべらせると、「おどかしだとおっしゃるの?」と目を変えてたち上る。すると伸一が母の腰にだきついて、「しんぱい、しんぱーい、ぼくつかまえてはなさないんだ」と叫ぶ。抑制ができなくなった私が「おまえが死ぬまえに、おれが死ぬ」などとわめき、玄関の方に出ようとすると》

 文章を途中で区切ったが、島尾敏雄氏の小説『死の棘』の一節である。

 夫婦というものの現実を「死の棘は罪」(コリント第一 15:56)という基調で照す。恐らく結婚・家庭カウンセラーなど専門家のところに持ち込まれるケースや日常知り合いに密かに相談されている結婚生活の深部は、文学性を持たないだけにもっと悲惨に違いない。島尾氏の小説は、「出ようとすると、今度は妻と伸一が私をつかまえてはなさない。もみあううちに、妻の表情がやわらかにほぐれて、せつなそうな顔をしはじめるので、もうそれで終りにしたいと思っていることがわかるが、自分の方のこころが、ざわめいてすぐ応じられない。」と続く。そして時が日常にもどり、発作がおさまるように、「家庭の事情」は終り、「二人はしっかりだき合い背中をなでている」との描写のあとは「次の発作がいつ襲ってくるかわからないので、その時の安らぎは渇きのときの一滴の水のように甘美に感じられる」と結ばれていく。

 夫婦のことを昔から yoke fellow(軛のともがら)と言うが、それを実験室の実験結果を報告するように、死と生を含めた深みの視点から、このカトリック作家は画いている。yoke fellow という言葉は、捉えようによっては、そうあるべきだという倫理にも聞えるし、自嘲や皮肉をこめた現実認識とも伺える。古くからその両面を含めて使われてきたのであろう。この言葉は古代ギリシャからあるのだから。

 古典ギリシャ語でも”シュゼウグニュミー”(”ゼウゴス”[軛]+”シュン”[共にする])は、特に結婚のこと、対になることを意味している。イエスはこの言葉を使って、離縁を欲しいままにしようとする律法学者らを「神が合わせられたもの(シュゼウグニュミー)を、人は離してはならない」(マルコ 10:9)と批判した。当時のユダヤ社会で、とりわけ男性中心社会では、律法を掌中にしていること自身が、弱い立場にある女性の抑圧につながった。律法による離縁状の正当性だけで切られることなどとうてい許されるべきではない、女性の哀しみを含めて綴られてきている結婚史の、その共存性や連帯性の部分へのイエスのまなざしが、そこにはある。「神が合わせられたもの」とは、即自的に離婚禁止のキリスト教教理などではない。男性中心社会への批判を込めた、イエスの怒りの言葉であると思う。


 新婚早々、夫は残業が多く「帰宅すると食事、寝るだけの毎日」「会話もできない苛立ちからつい何でもケンカごし」「相当気分が滅入りました」「ふと結婚カウンセリングで聞かせていただいたことが心の中に浮び」「結婚とは二人だけの間の契約ではなく、神様と夫、神さまと私という契約であるのだから……」「お互いに反省することばかりで……」「ようやく心が軽くなりました。」こんな手紙をいただいた。


 激動の時代の波間にある”軛のともがら”に祝福あれ。