礼拝要旨「神の器として」(1990 頌栄短大)

1990年4月?(記載なし) 頌栄短期大学チャペル、チャペル月報 1990.6 所収

(健作さん56歳)

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 フィリピの信徒への手紙 2:13 (新共同訳)


 今の時代”優しい”という言葉が巷に氾濫しています。”優しさ”とは?、と改めて問う必要があります。それは単に柔らかく、当たりがよく、表面が感じがよい、保育者で言えば、子どもにソフトに当たるといったようなことばかりではないはずです。

 私はかつて、在日朝鮮人作家の高史明(コウサミョン)さんの『生きることの意味』(筑摩書房)を読んで、優しさについて教えられたことがあります。高さんが育ったのは40年前の戦争中、下関では多くの朝鮮人が労働者として連行され、貧しい生活を強いられてまいりました。父親の手だけで育ち、在日朝鮮人差別を毎日いやというほど味わされて、心もねじけ、暗い気持ちの高少年に対して、小学校の受け持ちの先生が本当に暖かい心でもって、彼の憂いを理解し、一緒になって憂い、励ましてくれました。少年は教師の優しさを知ります。そしてこの作家はこう言います。「優しさとは漢字で人を憂う、と書く。人の世の創造的すばらしい関係は何よりも人が人を憂うることから始まる」。大変感心をいたしました。

 ところが、優しさにはもっと古い意味があることを後で知らされました。万葉集の山上憶良の歌「世間を憂しと優しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」。大岡信さんのコメントによれば、寒さと空腹に耐えている一家に容赦もなく押し入る村の役人に対して詠まれ、どんなにつらく身の細るような思いであれ、鳥のように翼がないので飛べないという意味の歌だそうです。ここに使われる”やさしさ”は、身も痩せるように感じる、恥ずかしい、という意味で、それがそのような状態を思いやるというふうに意味が変わってきたそうです。

 聖書の中にも”優しい”という言葉が沢山出て来ます。それは日本の昔の意味のように、身も細るような過酷な運命を耐えている人の気持ちを自分も持つということなのです。

 荒井献さんという聖書の研究家は、聖書の優しさを「優しさとは抑圧され、疎外された社会的個人の在りようを、共に苦しみ共に感じるという方法をとるときに生じる想像力に基づく感情である」と言っています。

 昨年、幼稚園の父の日のこと、一人の母親が、離婚をし父親がいないので子どもを休ませる、と言いました。私は説得をし、その日、母と娘はやってきましたが、心の中にはいろいろな意味での耐える気持ちを持っているでしょう。それをじっと見守るのが母親の役目です。父親がいない、それは子どもの責任ではなく、その子に負いかぶされた出来事です。離婚の問題はある意味では社会的な憂いですし、現代的な憂いです。そして、私共が避けて通ることのできない憂いです。そんな悲しいことは、子どもの世界にも沢山あります。それを心で共感できること、共に苦しむことが出来る。それが優しい先生の本当の姿だと思います。

 人の苦しみを共に苦しみ、人の悲しさを共に悲しみ、ひたすらその道を歩まれた方のことを私達が本当に知りたいと思うならば、聖書を学んで下さい。イエス・キリストという方は、そういう意味で優しい人です。イエスの優しさを知り、イエスの優しさに励まされ、優しさを携えた保育者、神の器となって下さい。神の栄光(実は、イエスが十字架につけられるまで人々の苦悩を共有したという栄光)を象徴する「頌栄」という学校で真剣に学ぶなら、そういう力がきっと与えられると思います。

(サイト記)本文内、荒井献氏からの引用があり、印刷物に「創造力」とある箇所をサイトでは「想像力」としてあります。引用元文献不明です。