心清き人、出でよ《マタイ 5:1-12》(1997 説教・週報)

1997.2.9、神戸教会
降誕節第7主日礼拝

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん63歳)

マタイ 5:1-12「山上の説教」のはじめ

”心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。”(マタイ 5:8、新共同訳)


 聖書が読まれている。

 例えば、岩波版『新約聖書全5分冊』(岩波書店 1996)が売れているという。

 これは逆に時代の不透明感を反映しているともいえる。

 遠い古典を通して、今の状況を生きる主体の検証のために、聖書が広く読まれることは良いことだ。

 聖書に固執して、自らの生き方を整え、あるいは「教会」のつながりの中で魂の養いを与えられることを求めるのは、プロテスタント教会の伝統である。

 教会に来て、人と出会うこと以上に、聖書に出会うことは大事なことだ。

 聖書を読む、各人の工夫を分かち合い、聖書を読むための研鑽を共にするために一層励みたい。


 聖書日課は、古来から教会が聖書に出会う日常的営みへの工夫であろう。

 クリスマスから受難・イースターの間の期間は、イエスの生涯、振る舞い、教えなどのテキストが選ばれている。

 この週は、ルカ13〜14章が読まれる。

 今朝のマタイ5章1節〜12節も教会暦テキストの一つである。


 さて、山上の説教(マタイ5章〜7章)を読むにあたっては、これらが歴史上のイエスに遡るものではあっても、現在の我々の手にするテキストが、福音書記者マタイが文学的に構成した作品である事を認めて、取り掛からねばならない。

 あの史的イエスから、新約聖書の福音書が作成されるまでの間には、初期キリスト教団の口伝伝承と成文伝承という広範な領域が広がっている。

 イエスの使信は、ここで教団の思想および生活の異なる諸条件の下で解釈された。


 かつて、新約聖書学者・荒井献氏は、マタイ5章3節〜12節の「幸いの説教」を、わずか3行に還元してしまった。

”貧乏人は、幸いだ。
 飢えている者は、幸いだ。
 泣いている者は、幸いだ。”
(『イエスとその時代』岩波新書 1974)

 元来、これはイエスが生き働いた状況における発言で、貧乏人、飢えている者、泣いている者が「幸いだ」と言われないならば、どこに幸いがあるのか、という逆説と同時に、これらの人が神に全信頼を寄せ、「神の支配」の内を生きた有り様を告げている、と言われる。


 一方で「心の清い者」の祝福は、イエスの教えの原型に基づくというより、詩編に基づくとも言われる。

”どのような人が、主の山に上り
 聖所に立つことができるのか。
 それは、潔白な手と清い心をもつ人。
 むなしいものに魂を奪われることなく
 欺くものによって誓うことをしない人。”
 (詩編 24:3-4)

 そして「心の清い人」とは「義」を行う人だという。


”わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。”(Ⅰテモテ 1:5)

”若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。”(Ⅱテモテ 2:22)


 初代教会の時代も「清い人」が渇望された。

 今の時代も同じではないか。

(1997年2月9日 神戸教会週報掲載 
岩井健作)

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