出会いの風景《マルコ 2:13-17》(1997 説教)

1997.2.2、神戸教会
降誕節第6主日礼拝

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん63歳)

 今日の聖書の箇所は、聖書日課で選ばれているテキストです。

 ここには4つの別々な伝承が集められています。

 マルコ福音書の著者がそこに更に「書き込み」を付け加えています。

 13節は、前の段落につなげるための著者の編集句です。

”イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。”(マルコ 2:13、新共同訳)

「教えるイエス」のイメージは繰り返し出て来ます。

”人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。”(マルコ 1:22)

 信仰・奉仕・愛・献身など、主体的真理、あるいは宗教的真理は、教えることは出来ないものです。

 悟り、あるいは会得し、体験する以外に伝わらないものを、繰り返し繰り返し「教える」イエスに感動します。

 どんなに深い祈りがあったのでしょうか。

 私は、教会での学びも、祈りがあって初めて成り立つものだとしみじみ感じます。

”同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。”(ローマ 8:26)

 とあるように、執り成しの祈りによって、私たちは信仰の学びや教会へのつながりのあることを覚えます。

「教え」られることの尊さを大切にしたいと存じます。


 14節。レビの召命。

”そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。”(マルコ 2:14)

 収税所は、行政上の二つの支配領域が接する境界線上にありました。

 ローマの支配の許で、税を取る仕事をするレビは、ユダヤ律法では禁止事項に違反する行為をする故に「罪びと」なのです。

 生きるためには仕方のないことです。

 社会で生きるために犯さざるを得ない神の律法が、レビには重かったに違いありません。

 イエスは、律法より徹底した神の道を歩みます。

 この世で神ご自身が神であるためには、負わねばならない苦難の道、十字架の死への道です。

「通りがかりに」とは、イエスの道とレビの道が交差する瞬間です。

”わたしに従って来なさい”

 これは律法の束縛を破る言葉です

 またレビの孤独を包む言葉です。

 社会的な冷たい眼差しを遮る言葉です。

 レビの内うちにある微(かす)かな救いへの求めに、手を差し伸べる言葉です。


”彼は立ち上がってイエスに従った”

 救いの出来事は、一気に描写されるものなのでしょう。

 立ち上がる、という内面的営みは、聖霊の働き、神の業そのものであるのに、一つの風景のように描かれます。


 15節。

 孤独なレビとはまた別な「家の教会」のレビが描かれます。

 時代の隔たりは省略されています。

”イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。”(マルコ 2:15)

「家」はノーマライゼーションの場、共に生きる場を表しています。


 16〜17節。論争物語。

”ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」”(マルコ 2:16-17)

”罪人を招くため”

 という過激な逆説はイエスに遡ると言われます。

”丈夫な人…”は格言の引用です。

 激しいイエスは誰にやさしいのでしょうか?

(1997年2月2日 神戸教会週報掲載 
岩井健作)


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