1973年8月12日 岩国教会週報
「先週(平和聖日)説教より」ヨハネ9:39-41
(岩国教会牧師8年目、健作さん40歳)
盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが「見える」と言い張るところに、あなたがたの罪がある。(ヨハネ9:41)
「平和を作り出す人たちはさいわいである」とイエスは言う。平和を欲する人、好む人、願う人、愛する人とは言ってはいない。「作り出す」という労作の中で、繰り返し考えねばならぬ大切な点につき、ヨハネ9章の「盲人とパリサイ人」の物語から学びたい。一つは、何が難しいかといって、自分の変革が最も難しい。「見える」(=自分は分かっている)と言い張るパリサイ人の誤りを自分の内側から知るのは苦しいことだが、それをやり遂げていけるよう、祈りつゝ励みたい。第二は、パリサイ人が盲人の苦しみから見ることなしに「見える」立場から盲人を見たことである。そこには差別がある。差別が平和を阻む根源であることを見ぬかねばならない。岩波新書『ベトナム帰還兵の証言』(日本語訳1973年7月初版)を読んだ。「証言することの苦しみ」を訴えたドナルド・ダンカン氏は、自分たちの戦争犯罪の行為を語るのは、語る者にとっても苦痛であるとしつつ、贖いを信じ、自らの戦争責任を告白する。そしてそのようなものを生み出したのはアメリカの社会制度全体が人種差別の上に組み立てられているからだ、と問題の根を指摘する。この本は、その意味では、戦争の悲惨さだけを語るものとは異なる。差別の実態を自覚しないで、平和を作り出すことは出来ないことを、平和聖日に今一度思い起こしたい。
(1973年8月5日 岩国教会 岩井健作)


