つまずき(1971)

1971年8月15日 岩国教会週報
「先週説教より」マルコ14:27-32

(岩国教会牧師6年目、健作さん38歳)

皆がわたしにつまずくであろう(マルコ14:27)

 イエスが弟子たちに語った「躓くであろう」という言葉は冷厳に響く。慕ってきた師から面と向かってこのように聞くことは、おそらく苦痛に近かったことであろう。ペテロはその苦痛に耐えられなかった。「わたしだけは……」とイエスの言葉を否定した。しかし、イエスはそのペテロでさえ、その夜のうちに、イエスの逮捕に際し、彼を裏切ることを告げる。ペテロは力を込めて、イエスと共に死ぬことの決意を語るが、もはやイエスはそれについて何も語ってはいない。ペテロは真面目に語ったのだろう。彼の決意がまだ不足しているのではない。ただ皆が、例外なく皆が、イエスに躓き、その躓きを通してしかイエスに従うことも、その心に触れることもできない事実だけが、ためらいなく、情を超えて告げられている。この事実を認めることは苦しいことだ。ペテロも自らに泣いた(マルコ14:72)。元来「つまずき」の語が「罠の棒」を示しているように、罠にかかって、自らの愚かさを、囚われた心で悔いることのうちに我々は躓きを自覚する。しかし、イエスはこれを含めて弟子たちに語りかけ、呼びかける。我々がイエスに躓く存在であることは、我々の悔いよりも先ずイエスの呼びかけによって示される。このことの中に救いがある。もはや我々は日頃の人間関係で、あまり物分かり良く、分別ありげに振る舞うことをすまい。イエスに躓く我々の心の深みにおいて、誤解と破れ多い関係を見つめてゆきたい。このことを踏まえるならば、我々が絶えず自からの内に立ち返ることなしに、歴史上あらゆる領域に見られる分断の時代を我々が生き抜くことはできない。我々が躓きを忘れた物分かりの良さの中に安住する時、イエスは再び冒頭の言葉を語られるであろう。

(1971年8月8日 岩国教会 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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