「箴言」の味(1987 神戸教會々報25)

「箴言」の味

神戸教會々報 No.116 所収、1987.9.13

(健作さん54歳)

 語彙が飛躍的に増加する二、三才の幼児は、よく「誤り」とも思われる表現をする。「チガガデタ」「カンゴクサン」「ミラシテヤローカ」「スキクナイ」「イイノズボン」。

 大人の言語感覚を規範とすれば「誤り」だろう。だが、スイスの児童心理学者ピアジェは、子供のこの「誤り」を何故と探り、子供の認識の発達は、人類の認識の発達になぞらえ得るとして、「発生的認識論」という壮大な論理を築いたという(海保博之『「誤り」の心理を読む』講談社現代新書 1986.11)。このことには規範的見方を一度はずして、過程や経験という細部からものを見ることへの促しがある。


 水曜日の祈祷会の聖書研究で、この夏から旧約聖書の「箴言」を学び始めて、今まで何とはなしに規範的に見ていた旧約聖書のもう一つの様相が見えてきた。「律法」(旧約のはじめの五書)を中心とする順序を逆にして見る見方である。確かに「律法」は旧約の土台であり、木でいえば根にあたる。時代や状況を超える「神の言葉=意志」でもある。その次に「預言」が来る、つまり時代や状況に即して、神の言葉が活かされることで、アモス、イザヤ、エレミヤ、など預言者の真実な実存はまことに壮絶である。木の幹の風雪に耐えた肌の如きものをそこに感じる。ところが、詩篇、箴言、ヨブ記等々を含む「諸書」は、内容的には根や幹から派生する葉や花の如き位置にある。しかし、「諸書=ケスビーイーム=書かれたもの」がもつ教え方、説き方は、規範からということではなく、人間の知恵や経験に訴える方法であり、経験知がことさらに重んじられている。経験知は体系や全体ではなく、断片であり部分である。祭司は「律法」を教えさとし、預言者は叱責と幻を叫ぶが、賢者は、知恵、格言、民話をもって民の実生活を導く。

「箴言」には、エジプトの「アメン・エム・オペトの教訓」に由来する官吏の高等教育教訓に由来する知恵や、他方メソポタミアの「アヒカルの言葉」に含まれている「諺」「格言」など民衆の生活の知恵が含まれている。だがそれは単にそれらの集大成ではない。ユダ王国滅亡(紀元前538年)後に完成された独自の文学的創作である。エジプトやメソポタミアの知恵との相違点は経験知の中に「規範」を断片化している点であろう。

 知恵や知識は知性で納得をするから合理性をもつ。その反面、「律法」や「預言」がもつ規範性や迫力はない。だが、時や所や民族が変わってもなお普遍性をもつのが経験知である。箴言は旧約他文書に比べ民族的性格は弱い。しかし、そこには相対的、部分的でありながら、個人の人生において遭遇したことどもを省察するところからくる経験知の一句に、「神」を知ることを含めて全体への洞察を秘めようとしている。少なくともそのように経験した人たちが居るということが箴言の味であろう。


 主を恐れることは知識のはじめである、
 愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。(全体の編集句 箴言 1:7)


 へりくだって貧しい人々と共におるのは、
 高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる。(同 16:19)


 孫は老人の冠である、父は子の栄である。(同 17:6)


 戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主にある。(同 21:31)


 愛はすべてのとがをおおう。(同 10:12)

 箴言を是非共に学んでみませんか。

季節のいざない(1987 神戸教會々報26)