名を伴った証し《ヨハネ黙示録 22:6-11》(1987 週報・説教要旨・待降節)

1987年11月29日、待降節第1主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)

(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん54歳)

ヨハネの黙示録 22:6-11、説教題「名を伴った証し」岩井健作

 ”これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。”(ヨハネの黙示録 22:8、口語訳)


 昨日の新聞の書籍広告を見ていたら”ヨハネの終末大預言”と題して、10年後の日本の破局、富士山大爆発などを「ヨハネの黙示録」の描写から描き出している本がありました。

 この種の本が最近目につきます。

 しかし、聖書を読むということは、その記事に寓意的に自分の関心を重ね合わせることではないでしょう。

 聖書各文書は歴史的にそれぞれの時代に書かれたもので、その当時のかなり具体的で限定された現実に対して発言されたものです。

 そこを十分に読み取らなければ、聖書を読んだことにはなりますまい。

 そのような点で、大変すぐれていて、しかも解りやすい「黙示録」に関する本が出版されています。

 数年前(1984年夏)私たちの教会の夏期集会にもお招きしたことのある、広島大学・佐竹明教授(新約聖書学)の『佐竹明聖書講義 黙示録の世界』(新地書房 1987年5月)です。

 これは、広島YWCA主催の講義テープを「刊行会」が起こしたものです。

 青山学院神学科が学院当局の「弾圧」で廃科になり、神学教授たちが追われて以来、広島に定住した佐竹先生の生きる姿勢を窺わせるような書物です。


 さて、黙示録は紀元90年だい、ローマ帝国のキリスト教徒への迫害が本格化し始める頃、地中海の離島パトモスに信仰の故に幽閉されていたヨハネという名の人によって、小アジアの7つの都市教会を念頭に置きつつ記された文学作品です。

 作品の文学形式は、当時一つのジャンルを成していた(ダニエル書など)「黙示文学」です。

 佐竹教授が強調していることとして、「ヨハネ黙示録」の特徴が、他の「黙示文学」がみな偽名で書かれている(これには当時のユダヤ教の事情があります)のに対して、本名で書かれている点が挙げられます。

 またヨハネ黙示録の基本的性格は、かつて活動したイスラエルの預言者たち(イザヤ・エレミヤなど)と質を同じくするものだという点を挙げています。

 今日のテキスト箇所、ヨハネ黙示録22章には、「預言の言葉」(ヨハネ黙示録 22:7, 10, 18, 19節)という表現が何回も用いられています。

 預言者が自らの名を持ち、自分の発言、自分の言葉として、神に生かされている、止むに止まれぬ言葉を語ったように、ヨハネは巨大なローマ帝国の支配の中で語ります。

 私たちの生きている管理社会、国家主義支配社会では、適度に状況と融和した意味での「自分」は持てるけれども、その外に、つまり、神・キリスト・福音・真理といった別の根拠から基礎付けられる「自分」が弱くなりがちです。

 そこを各自なりに、神によって生かされている自分(名)を明らかにする戦いとして、ヨハネに倣って生きてまいりたいと思います。

(1987年11月29日 神戸教会 岩井健作)


1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)

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