神戸教會々報 No.117 所収、
1987年12月20日発行
同日クリスマス礼拝説教「福音のはじめ」
(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん54歳)
”見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。”(ヨハネ黙示録 3:20)
気候と季節は、追ったり追われたりしながらやってくる。
今年は六甲の峰々がいくたびか淡く冠雪したというのに、教会堂の石段のかたわらの銀杏の葉はまだ色づいていない。
12月に入って、その会堂では「教会カンタータの夕べ」が行われるというので、銀杏と対のようになってきた西側のクリスマス・ツリーには早々と電飾がほどこされた。
今年もクリスマスの季節は確かな足取りでやってきた。
キリスト教国でない日本でさえ習俗化されて久しいクリスマスだから、ヨーロッパなどの土着化は自然に近いものがあるのだろう。
植田重雄著『聖母マリヤ』(岩波新書 1987年3月)にはマリヤ習俗の数々が記されている。
その一つ「マリヤ迎え」はほほえましい。
マリヤ、ヨセフの聖画像をたずさえた子供たちが、他の子供たちの先導で村の家を訪ね歩き、一夜の宿を求める。
内と外と二組のコーラスが歌で問答をする。
「だれかが戸を叩いている」
「お気の毒な方々よ」
「私たちは宿を探しております」
「お願いです。一夜泊めて下さい」
「いやそれはなりません」……
やがてマリヤを泊める家に着くと、そこは乳香・没薬で祭壇がかざられ、近所の人々も集まり、祈りが唱えられ、和やかな一夜が送られるという。
植田氏は「貧しいマリヤとヨセフが旅をしながら神の子を降誕するというテーマは、新しい歳神(としがみ)が訪ねてきて宿を乞う『まれびと』に相通じるものがある」(上掲書 p.99)という。
そういう意味では、クリスマスは、神学的には歴史における神の一回的啓示でありつつ、同時に、それは季節の民間行事に繰り返される誘(いざな)いでもある。
冒頭に引用したヨハネ黙示録の言葉は、黙示録では前半部分に位置する「7つの教会への手紙」の結びの部分に記されている。
ローマ帝国のキリスト教徒への迫害が本格的に始まらんとする時期、アジア州のラオデキヤの街の教会は「見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい」とまで言われる位、事態の緊迫さにうとく、信仰の根源を逸脱していた。
「冷たくもなく、熱くもない」内々の陽だまりに安穏としていた。
そこに向けて黙示録の著者は、信仰の逆説を投げかけている。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実はあなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」(3:17)とまで言っている。
ここには、内と外とを同時に客観的に把握するような視点はない。
内に安住する者に、自からの生き方、魂の翻(ひるがえ)りを促すような仕方で、内と外との把握が語られる。
”見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。”(ヨハネ黙示録 3:20)
ここで示される「外」は、耳を澄ますこと、つまり自分本位や内々の論理が破れる苦渋の中で耳を澄ますことを通して想像される「外」なのである。
内側にいることにすら気がつかない者に、内を自覚させるばかりでなく同時に内と外との逆転と、その全体を知らせる方として「神の子」イエスが居ますことを告げ知らせるのがクリスマスであるが、それが季節と共にめぐり来るところに妙味がある。
今年も様々な「外」に思いをめぐらす。
私たちの思いを越えて外は寒いかもしれない。



くるみの木の十字架
(1988年3月 神戸教會々報)