恵みに見合う生活《ヨハネ黙示録 12:7-12》(1987 週報・説教要旨・待降節)

1987年12月6日、待降節第2主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)

(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん54歳)

ヨハネの黙示録 12:7-12、説教題「恵みに見合う生活」岩井健作

 ”兄弟たちは、子羊の血と彼らのあかしの言葉とによって彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。”(ヨハネの黙示録 12:11、口語訳)


 ヨハネ黙示録を読んでいて、解りにくいと感じるのは、心が鈍いせいだと思っている。

 何故か。

 ヨハネ黙示録の読者はローマ帝国の本格的迫害が始まらんとする時代、もしくは迫害がすでに始まっている時代に生きている。

 それをどう受けとめていくのか覚悟せざるを得なかった。

 それに比べ、現在の私たちは、厳しい状況で信仰の質的戦いをしている人はいるけれども、一般的には平穏な、ぬるま湯の如き状況にある。

 そんなことがこの文書を遠いものとしていると思う。

 もちろん古代の黙示文学という文学形式の難解さはある。

 しかしそれは聖書の解説を聞けばそんなに大きな壁ではない。

 この文書の語りたいメッセージをよく表現しているのは、今日読まれた黙示録12章10節である。

 ”今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。”(ヨハネの黙示録 12:10a、口語訳)

 これは聖書の基本的告知の基本線でもある。

 つまり、救いは人の力や努力で実現するのではなく、神の側からの働きによってのみ成る、ということである。

 黙示録は12章で、このことを当時よく知られたギリシア神話や、龍とミカエルとの戦いの神話などを素材にして述べている。

 この章の論旨は、悪を代表する力は、天から落とされてしまい、神の決定的勝利に終わった。地に落ちた悪魔が今しばらくは暴れるであろう。それが迫害だ。しかし、それもあと僅かである。迫害に耐えよ、ということである。

 地上で迫害が激しくなるのは、むしろ悪魔のあがきである、という主旨である。


 11節の「子羊の血」はキリストの死を通しての神の勝利を示している。

 ”兄弟たちは、子羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。”(ヨハネの黙示録 12:11、口語訳)

 だから、救いや恵みの実現を語るとすれば、強いて「彼らの証しの言葉とによって」を併記する必要はない。

 しかし、ヨハネ黙示録がそれを並べているところに、この書物の固有さがある。

 根本的に言えば、迫害に耐える力も、神の側から与えられなければ、人間の内側から出てくるものではない。

 しかし、それをあたかも迫害に耐えることが、神の恵みに見合う人間の側の頑張りの如くに言っている。

 いや、そこでは恵みを受けて、それに相応しく生きる生き方が期待されている。

 証しが恵みを全うすると言ったら言い過ぎではあるが、そのギリギリのところを言っているのが、黙示録である。


 「信仰義認論」、仏教で言えば「他力本願」は、気をつけないと観念化する。

 生活という受け皿に絶えず徹底化されない恵みは、どこかで観念の方向に滑ってしまう。

 信仰と生活が二元化するところに恵みは働かない。

 軋(きし)みはあっても、その軋みを生きる者でありたい。

(1987年12月6日 神戸教会 岩井健作)


1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)

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