福音のはじめ《マルコ 1:1-4、ヨハネ 1:1-5》(1987 週報・説教要旨・クリスマス・洗礼式・聖餐式)

1987年12月20日、待降節第4主日、
神戸教会クリスマス礼拝(234名)
午後、愛餐会(125名)
同日発行 教会報「季節のいざない
(説教要旨は翌週週報に掲載)

(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん54歳)

CS花隈校クリスマス会 12月20日(日)午後5時(約130名)
CS石井校クリスマス会 12月19日(土)午後5時(43名)
クリスマス燭火讃美礼拝 12月24日(木)午後7時半(約530名)


マルコ 1:1-4、ヨハネ 1:1-5、説教題「福音のはじめ」岩井健作

 ”イエス・キリストの福音のはじめ”(マルコによる福音書 1:1、口語訳)


 世の中には悲しいことがいっぱいありますが、その中でも家族が生別・死別を含めて引き裂かれていくことは本当に悲しいことです。

 そしてその悲劇を最も多く作り出してきたのが戦争です。

 広島の清鈴園(原爆老人ホーム)から「15年の歩み」が刊行され(『清らかな鈴の音を : 15年の歩みから』新教出版社 1987)、被爆の証言が掲載されていますが、戦争と家族の別離の傷が痛いほど伝わってきます。

 だから戦争終結の告知こそは「よきおとずれ=福音」でありました。

 元来、”福音”(ギリシア語 ”エウアンゲリオン”)とは古代ギリシアでも、マラトンの故事に示されたように、戦勝の知らせを告げる用語です。

 旧約聖書イザヤ書52章7節でも、バビロニア捕囚からの解放を告げることが「よきおとずれ」と言われています。

 ”よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。”(イザヤ書 52:7、口語訳)


 ”福音”という言葉が、イエス・キリストについて用いられたのは、イエスの死後成立した原始キリスト教においてでありますが、それは初めから専門用語として「イエスの十字架の死と復活を中心とする救いの出来事」を内容としていました。

 パウロはそれを受け継ぎ、ローマ1章2〜4節で次のように言っています。

 ”この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。”(ローマ人への手紙 1:2-4、口語訳)


 ここには信仰内容の要約があります。

 このような信仰把握の方向を、普遍化・まとめの方向とすれば、これと真っ向から対立し、”福音”をイエスとの関わりの個別状況へと限りなく拡げて捉えたのが『マルコ福音書』の著者の視点です。

 苦悩の多い生活の中でイエスと出会い、その喜びを民間説話や奇跡物語の形で口から口へと伝えていった人々の個別の体験と生の総体を通して示されたものを、マルコは”福音”と呼ぶことにより、要約と一般化を拒む質をもったものとして示しました。

 あたかも方程式の共通項では締め括れない部分を綴った形で、創造的労作『福音書』が存在しています。

 「福音のはじめ」とは、その緒(いとぐち)、手がかりの確かなることを示しています。

 どうにもならない個別の出来事を通して示される「神の働き」こそが”福音”なのです。


 今日、受洗をされる3人の若い人たちの入信への道程は、本当に個々別々の事柄の積み重ねです。

 しかし、それこそが”福音”そのものの”はじめ”を暗示しています。

 人の悲しみや苦労ほど個別なものはありません。

 《それが重んじられてよい》というところに”福音のはじまり”があります。

 東の博士たちが苦労多き旅の末にイエスに出会ったように、その旅路を意味あらしめる方との出会いに人生の細部をかけていきたいと存じます。

(1987年12月20日 神戸教会 礼拝説教要旨 岩井健作)


1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)

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