1971年8月22日 岩国教会週報
「先週説教より」マタイ16:13-20
(岩国教会牧師6年目、健作さん38歳)
それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。(マタイ16:15)
信仰告白というものは、その表現において、伝統的な概念や思想を用いるものであるが、それが自分の告白であるという点が大事である。ペテロに即して言えば、ピリポ・カイザリヤ(領主ピリポがカイザルに捧げた街)という政治支配に彩られた街で、人々がイエスの周りから権力を憚って去り始めた時、自分たちは単なるラビ(師)の弟子ではない、イスラエルの人たちが伝統的に待ち望んできたメシア(ギリシア語ではキリスト、神に油注がれた者、すなわち救い主の意)に従う群れなのだ、という自覚の告白が「あなたこそキリストです」という告白であった。イエスはこの告白を肯定もせず否定もしていない。だが沈黙を命じている(特にマルコ参照。マタイは独自の解釈を展開する)。それは、告白というものが〇✕式のように、正しいか、間違いか、決められるものではないからである。ここでは「キリスト」という概念を用いたことが重要というより、他の人々が去っていく中で、自分なりのイエスへの関わりが表明されているところに大切さがある。ペテロのキリスト告白は内容において、イエスに戒められているように、内容は後々修正されるとしても、関わりの真実がなかったならそれすら許されない。
今、教団の信仰告白と戦責告白をその成立の事情を通して考えるとき、後者の意味は、前者には欠けていたもの即ち自覚的な告白の主体がはっきりしてきているということである。
私たちも、自分の言葉、表現で、自分なりに信仰を言い表していくことをしないで、信仰が深められる機を掴むことはできない。
(1971年8月15日 岩国教会 岩井健作)


