2006.2.5(日)、「岩井健作」の宣教学(47)
関西神学塾 岩井健作
(単立明治学院教会牧師、健作さん72歳)
1.はじめに
宣教学はそれが語られる状況と相関関係なくしては成り立たない。そこが「教義学」や「聖書の歴史学」とは異なる所である。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人に」(マタイ25:40 )とあるように「一人」からの問いから構築されるのが「宣教学」であろう。
例えば今、日本では急を要する「憲法問題」にしても、日本国現行憲法を「変えよう」という意図を「最も小さい者」の視点から見るならば、自ずと対峙の姿勢は定まる。第9条2項の「軍隊を持たない」を変えさせてはならない。憲法問題への宣教的アプロ-チは明確である。日本基督教団は1962年の「日本国憲法擁護の声明」以来、またキリスト教は「キリスト新聞」の標語「平和憲法を守れ」の基本姿勢を表明して以来、そのような関わりを続けて来た。
もちろん実質的にそれが理念の問題として扱われ、実践や運動など「足」のこととされてこなかったことには、厳しい検証がなされねばならない。頭・耳・目・口、の働きにまさって足の実践が思考を促すことがもう一度検証されてよい。
2.最近の動向
関田寛雄著『「断片」の神学 - 実践神学の諸問題』が出版された(日本キリスト教団出版局 2005/11/23)。少し長いが、この中の一節を引用したい。
“私が戸手伝道所という「生活の座」から促されることは今日の神学……のあり方への批判である。……実践神学は……原理的なもの、理念的なものを適用する場として……考えられてきた。……しかし一体「原理的なもの」とは何か。無時間的に妥当する「原理的なもの」などはどこにもないのではないか。私は神学という営み全体の前に、「状況」または「生活の座」を前提すべきであって、実践神学とはむしろ神学総体に対してその課題的状況を提示し、神学の営み全体その課題解決に向けて方向づける責任を有する学科と考えるようになった。”
(同書p.423. 「宣教の課題としての外登法」1989)。[本書の出版記念の集いは2006年2月28日に行われる。岩井は呼び掛け人16人の一人。全体的評価は改めて行いたい。])。
この発言が、教義学が支配的となってキリスト教信仰が整理され、伝道、宣教の言葉を成立させている、現在のキリスト教・教会状況への有効な批判となれば幸いである。しかし、その影響が教団主流に及ばないのはなぜであろうか。
3.社会の一般状況
この論考の時点のマスメディアの流行語は「4点セット」。「耐震強度偽装事件」「ライブドア粉飾決算事件」「米国産輸入牛肉検査欠陥事件」「防衛施設庁談合事件」。問題は、これらが社会の問題として引き起こされるには根深い背景がある。それは米国型「新自由主義」による価値観が経済(株値中心資本主義)、外交(力背景)、軍事(米軍再編)を支配し、日本政府が追従する事実である。競争原理を至上として規制緩和を行い政治・経済・社会の「構造改革」と称して、弱肉強食、貧富格差、弱者犠牲を野放しにしていることの一つの結果がこれらの事件である。モラルの破壊が至る所で起こっている。
寺島実郎氏(日本総合研究所理事長)は「驕る資本主義の陥穽 M.ウェ-バ-の予言」(『世界』岩波書店 2006年2月号)で、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の一節を引用する。
「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、……その結果……一種の異常な尊大さで粉飾され機械的化石と化することになるのか……」と語り次の引用をしている。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無なるものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』と。
この荒廃が現実のものとなっている。とすれば、その人間破壊と戦う場にこそ宣教学は構築されねばならないであろう。
関田氏は「実践神学は神学のプロレゴメナ(序論)であり、神学を方向付ける責務を負う」(前掲書 p.424)という。だとすれば、実践神学に包括される宣教学は、現在起こっているあらゆる問題に耳を傾け、気配りをする必要があろう。
その人間破壊の力との戦い、あるいは回復に身を置かねばならない。もちろん一人の人間が包括的にできることではない。そこに、固有名詞の宣教学を語る必然がある。それは、また「神学的営為、あるいは宣教学的戦い」への呼び掛けでもあり、招きを待つ営為でもある。この月の私の足跡を以下列記したい。
4.2006年1月に参加した集会など
4-1.岩国基地視察
1月16-17日。神奈川教区 基地自衛隊問題小委員会主催(企画担当:岩井、参加他9名)。受け入れ:西中国教区 基地問題小委員会(大川委員長以下10名)。フィルドワ-ク(愛宕山土砂採取地視察)案内と講演は田村順好・岩国市議会議員による。
2008年完成予定の防衛施設庁による滑走路沖合移設工事(2400億円)の土砂が愛宕山から運びだされる現場、埋め立て海域の自然破壊を視察。この施設が厚木・普天間の艦載機航空部隊の移設と関連していること、特に厚木での反対運動の結果、硫黄島での実施を余儀なくされていた夜間離着陸訓練(Night Landing Practice)を岩国に集中できる施設であることなど学ぶ(2月2日 実施計画発表に対して市長は住民投票を行うと表明)。
岩国市民の反対運動の弱いこと、市当局は市庁舎建て替えで防衛施設庁からの多額な補助引き出しを狙っていること、市議会に基地拡張に好意的賛成者がいることなど、行方が案じられる。
岩国(山口県)はマスメディアが福岡に支社をもつため、十分な情報が伝わらない(広島は大阪支社)ことにも一因があるという。西中国教区が教区をあげて基地問題に取り組み始めたのは最近であり、地元地域との連帯ができていることは宣教の進展である。日本基督教団はいまだかつて基地問題に対応する機関をもったことがない。なお、2月2日付けマスコミ報道によれば、「移設」の工事に、官製談合の疑いがあり東京地検特捜部の捜索が始まったことが報じられている。政治の堕落と官僚の腐敗への怒り、それを糺す民衆力の低下を憂うることしきりである。市民の奮起を祈る。
学習資料「米軍の世界再編とヒロシマの基地群 -負担を一手に引き受ける岩国基地」(発行、ピ-スリンク広島・呉・岩国、2005/12 ニ版 pp.65)。
1月17日(阪神淡路大震災から11年目)を神戸で過ごさなかったが、岩国・広島・神戸・神奈川を繋げて、人間の尊厳の破壊を思考する一日を過ごした。
4-2.「戦争を止めよう!百万人署名運動」
「よびかけ人会議」「前全国代表者会議」1月21日(土)於・渋谷。約80名。
運動開始以来8年、それをどのように総括するか。少数派の市民運動として評価をしつつ、運動がセクト主導のテーマになりやすい点の反省があった。今後分かりやすい単純なスローガンで市民のエネルギーを如何にまとめて力にしていくか。大同につく、小異は捨てない。教育基本法改悪反対署名が進展しなかったことへの反省があった。よびかけ人の主体ですすめる運動への回帰はできないか。今後、改憲阻止にどう取り組むか。(なお当日会場に公安警察が5名監視に張り付いていた。今までになかったこと)。
4-3.「あすの教団を考える神奈川の集い」
1月22日(日)紅葉坂教会。神奈川教区内教会 教職・信徒約20名。教団常議委員会報告、教区各委員会報告、「求めすすめる連絡会」報告・協議。教団正常化路線が公式機関を支配している時期、有志の連帯を意志的に行うことは必要。
4-4.「共謀罪新設反対国際共同署名運動」よびかけ人会議
1月28日(土)於・東京、後楽園。足立昌勝(関東学院大教授)他15名の発起人による運動。共同よびかけ人約220名にて発足。その一人として参加。
現在、戦時下アメリカで同質の法律が成立し如何に市民的自由を制限しているかに鑑みて運動を繰り広げたいとの協議をする。弁護士・漫画家・ジャ-ナリストの参加。キリスト教会は毎度お馴染みの名が目立つ、12名。
一般への配付資料はよくできている。『思想処罰・団結禁止・現代の治安維持法』(2005/12/7 発行、A4、12ペ-ジ。8度目の国会提出に至る経過、新聞きり抜き集)。「目配せ」も共謀との見出しあり。反対する声明(弁護士会、日本ペンクラブ等)掲載。
石垣リンの詩「表札」を引用した「“心の内”を処罰 たまらぬ」(朝日 2005/10/29)との、作家・落合恵子氏の一文が心に残る。資料には、法務省から出された共謀罪が適用される法律名619罪種が掲載されている。刑法の「内乱」を始め、市民生活のあらゆる部分で適用されることになる。
反戦運動などは「共謀」で弾圧しようと思えば何時でもできる。労働運動では、例えば団体交渉で「強要」の場面があったとしよう、それを「目配せ」で共謀したとすれば犯罪が成立する。だれが「目配せ」を共謀と確定するのか。警察権力の介入は日常生活にまで及ぶ。今までの法は犯罪が起きて初めて適用されるが、共謀罪は犯罪が予想されれば「犯罪」にできる。今までとは全く法のスタンスの異なる法である。
幾分かでも署名に取り組みたい。しかし、日常的に教会生活の現場とどのように繋いでゆくのか。大切なことは、自分の必然性を含めて学習をすることであるとの感を深める。
4-5.第15回 連続ティ-チ・イン沖縄・早稲田大学
約40名参加。1月28日(土)午後、講演「米軍再編と沖縄」長元朝浩氏(沖縄タイムス東京支社長)。
青学・上智・明治学院・お茶の水・早稲田・東大などの学生サ-クルと辺野古支援 市民有志などが参加して、各大学持ち回りで学習と情報交換をしている運動。
明治学院の当番で行われた第14回(ドキュメンタリ-映画『Marines Go Home』(藤本幸久監督)の上映と討論から参加。若い人が意外と運動に新しい参加のスタイルをもっていることを知る。例えば、反体制運動にこの頃、笑いがなくなった、なぜか。取り戻すにはどうしたらよいか、など。そんなことを考えている若者に出会う。
一人の学生に出会った。明治学院の英文科2年に在学。石垣島出身だという。本土に来るまで米軍基地の問題にほとんど関心はなかったという。第14回の会合が「湘南YMCA」を会場に行われた時、「牧師(岩井)」の発言に大変心を打たれたという。
多分、戦争の問題は、究極的には自分一人の問題になるであろう。
「殺すな、殺させるな、殺さない」という人間としての基本モラルをどこまで持ち堪えられるかにあるのではないか、との私の発言のことらしい。
彼は明治学院大学横浜キャンパス(戸塚)の近くに下宿していて、毎週金曜日の夜10時から独りで戸塚駅前でライブをやっているという。変わった学生。学院のなかに教会の集会をやっていて僕が話をしているから一度来ませんか、といったらクリスマスの時礼拝にやってきた。辺野古にも行きたいと言っていた。「足」が作りだした出会いであり、彼らが今の時代をどう生きようとしているかを知ることができる機会でもあった。
5.
この頃「足」を運ぶことが億劫になることがある。しかし、出かけてみると、その現場で他者性をもって迫る出会いがある。特に、自分の生活領域を破る人間疎外や人間破壊の現場を知らされ、その出会いによって思考の新しい展開を促される。「足」の宣教学は必要だと感じる。