神戸で出合った聖書の言葉(2006 「婦人の友」)

「婦人之友」 2006年2月号所収

(単立明治学院教会協力牧師、健作さん72歳)

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイによる福音書 5章8節)

 その日の朝、NHK テレビニュースは、「美しい女性像を描いて多くの人たちに親しまれた洋画家・小磯良平さんの葬儀が、神戸市中央区花隈町の日本基督教団神戸教会で本日正午より行われます」と伝えていた。

 そして数時間後、教会から枢を載せた車は、おおよそ二千人の会葬者に送られ、小磯さんが数々の名作を生み出した御影のアトリエを山手に望みながらゆっくり走り、やがて甲南斎場についた。

 私は、火葬前の祈りを捧げ終わった途端、内から込み上げ、とめどなく溢れでてくる涙を抑えることができなかった。

 「もはやこの人はいない」。古典主義アカデミズムの正統を歩み通して、清澄なデッサンで写実に徹した日本の近代の一つの美の終わりを感じていた。 

 私が初めて小磯さんにお会いしたのは、その日より十年前、神戸教会に赴任した1978年である。

 私は少年の頃から絵が好きだったので、新制作派展には欠かさずに出かけていた。小磯さんの作品の前では、いわば永遠の現在ともいうべき美の世界に圧倒された。雲の上の遠い存在だった。神戸に来るまで、小磯さんが神戸教会の会員だったこと、クリスチャンだったことすら知らなかった。

 より身近に接するようになると、小磯さんのまなざしが、写実の世界を越えて、ものの真実を見極める場面を幾度か経験した。小磯さんは1971年、旧約聖書と新約聖書に32点の挿絵を描き、日本聖書協会から『口語聖書聖画集』となって出版されている。


 「小磯良平再考 −『口語聖書聖画集』をめぐって」という論考の中で、山野英嗣氏(京都国立近代美術館主任研究員)は、この聖画について、私の『葬儀説教』を引用しつつ、「挿絵制作は『宗教性と精神性』に満ちた『小磯像』のはじめての具体的現れ」と評価している。

 その『葬儀説教」のテキストに、私は『心の清い人々は…神を見る』を選ばせていただいていた。選んだというより、この画家を通してこの言葉に出合ったと言った方がよい。

 塚本虎二訳は「見る」を「まみえる」と表現している。小磯のデッサンは心を純な清らかさへと誘う。なぜか。それはたった1本しかない事物の存在を現す隠された線に「まみえた」軌跡を走らせているからだ、と思う。デッサン力は技量を越えた精神性を醸し出す。その「線」に光を添えて「女性橡」を描いた。この画家の生き方とその生涯はデッサンに集中されて「神にまみえた」集積のように私には思え、宗教性を覚える。その背後には神戸の風土とキリスト教がある。それはビデオ『基督 in 神戸』(2001 神戸聖書展ビデオ製作委員会編、委員長・岩井健作)に描かれている。神戸の文化は「神にまみゆる」ことへのいざないを宿している。その意味でこの聖句は、私には神戸と共にある聖書の言葉である。


今日も、わたしは苦しみ嘆き、呻きのために、私の手は重い。(ヨブ記 23章2節)

 1995年1月17日、闇の底からドドーッ、ドカーンと体を宙に突き上げる激震を体験した。あの瞬間を含めて6433人の方が亡くなった。その一人の物語を朝日新聞の「天声人語」が伝えている。「最初の揺れが去った後、幾つもの地区が火炎に包まれた。73歳の父親が下半身を瓦礫に挟まれていた。子どもたちが、両手を思い切り引っ張った。炎が迫った。父親は穏やかに言った。『もう行け、もう行け』」(1995年12月31日)。読むたびに涙を禁じ得ない。

 神戸教会は倒壊をまぬかれたが、半壊の認定。行政の遺体収容所、支援団体の物資集積基地として活動した。日々非日常。その中で巡り来る日曜日の礼拝は極めて日常的に守られた。習慣も手伝って説教の原稿はいつものように端正につくった。その時出合った聖書の箇所の一つが、ヨブ記23章2節の言葉だった。

 旧約聖書のヨブ記は、財産の喪失、家族の災害死、重い病といった激しい苦難に出合った主人公ヨブが、不条理の苦難の意味を神に問い続けた戯曲。その神は自明な神ではなく、隠された神。友人は苦難の中で祈れば必ず神に聞かれるという。あたかもヨブの信仰が足りないかの如くに。楽天的な宗教だ。しかし、ヨブにとっては自明の神はすでに失われていた。因果応報の功利論の宗教が彼に「救い」をもたらしはしなかった。彼は「隠された神になお追いすがりつつ生きる」(浅野順一)。
 2節の「私の手」は「祈りの手」を意味する。旧約の世界では手を上げて祈ったと記されている。


苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され…(詩篇77篇3節)

 とは、手を伸べて祈り続けたということである。

 震災は弱者を襲った。愛する者の不条理の死をもたらした。行政の杓子定規な扱いに人々がいらだちを禁じえない場面にぶつかった。被災十年を覚えるために、幾つかの被災者団体が実行委員会をつくって行った『大震災十年・被災地生活実態調査』が発刊された。華やかな表面的復興とは裏腹に、住まい、仕事、借金、健康などの状況が、底辺被災者では悪化している。この調査はそれを浮き彫りにしている。加えて、富裕層と貧困層を峻別してゆく世俗的な「新自由主義」「グローバリゼーション」の暴風雨が日本でも追いうちをかけている。

 ヨブの言葉が身に染みる。教会では、旧約聖書の当時のように手をあげて祈りはしない。だが、神戸を思うと、「私の手は重い」と、合わせた祈りの手に自ずと力を込める。
「神戸市立小磯記念美術館」には小磯さんの友人、キリスト者洋画家・田中忠雄さんの作品「みくにを来らせ給え」が寄贈掲額されている。「主よ、御国を来らせ給え」。この街を覆う祈りに、皆さんも加わってくだされば幸いである。


深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。…主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。(詩篇130篇1,3節)

 灰谷健次郎の作品『太陽の子』の主人公、11歳のふうちゃんは、沖縄に故郷を持つ父が病気になったのをきっかけに、沖縄を知ろうとする。原作は映画になっている。ふうちゃんの飛び回る舞台に、神戸市中山手の山手学園や花隈町の料理屋富貴などがでてくる。神戸教会の近所だ。その南にメリケン波止場がある。ここに沖縄航路ができて、沖縄でのハワイ移民志向は変わり、神戸に沖縄の人たちが住み着くようになった。沖永良部島の人は宮本通りの一帯に、徳之島の人は長田に。ふうちゃんの一家も沖縄からやってきた。近代都市神戸の街の重工業の底辺労動力を担ったのは、但馬、播磨の農村部の人々、在日朝鮮人、沖縄の方たちだった。こういった人たちは、神戸の近代化のなかで差別を受けてきた。ふうちゃんもそんな体験から沖縄に目覚めていく。

 私たちは「戦後六十年」だという歴史意識を持つ。しかし、目取真俊さんは『戦後「沖縄」ゼロ年』(NHK生活人新書 2005年)を書いた。沖縄では戦争と占領は、今も続いているという。ヤマトの歴史意織の欺瞞と差別性を鋭く指摘している。ヤマトから虐げられた沖縄の歴史を忘れていて平気な自分を恥ずかしく思う。

 私は神戸に来る前、山口県岩国の教会の牧師をしていた。基地の街で沖縄を意織して、米軍基地撤去運動に連帯してきた。しかし、神戸に住んで明るい近代的な街で沖縄のことが薄れてきていた。その時、沖縄航路は再び沖縄への自覚の希薄さに気付かせてくれた。そうして「深き淵より」という詩編130篇が一層深く心に刺さった。

 この詩編には、聖書のメッセージが凝縮されているように思う。

「祈りの叫び」「罪の認識」「耐えて待ちつつ生きる生き方」「主の慈しみと告白讃美」。これらが一気に駆け抜けるように歌われている。

 この詩編は、少年時代から私の生き方を支えてきた詩だった。しかし、あの明るい港町神戸で、一層深く出合うことになった。

 聖書は無時間的に客観的真理を語ってはいない。歴史に働く神の呼びかけを、抜き差しならない各自の状況で、その都度聞き取った者達の証しの物語を綴っている。イエスはその歴史の最も激しく暗い部分を生き、死んだ。そこが聖書の頂点であることを意識しつつ、イエスに従って我々も、自分の一回的生の軌跡に、聖書の言葉に呼応する言葉を紡ぎだしていきたいと思うことしきりである。


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