1971年8月8日 岩国教会週報
「先週(平和聖日)説教より」ヨハネ21:15-23
(岩国教会牧師6年目、健作さん38歳)
しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。(ヨハネ21:18)
ペテロの物語において、かの「裏切りの物語」(マルコ14)と「テベリヤの海辺の物語」(ヨハネ21)とは深く関わり合っている。例えば、前者では三度イエスを否定したのに対して、後者は三度「わたしを愛するか」とイエスの問いが記されている。共に食事の後の出来事であるし、焚き火が出てくる。そして、ペテロの死に関わる発言がある。しかし、よく注意してみると、前者では死はペテロの決意として語られる。「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは申しません」(マルコ14:31)と。そしてそれはイエスの十字架の死のはるか以前で、崩れ折れている。だが、後者ではペテロの死の暗示「自分の手をのばすことになろう」(十字架上に手をのばす死に様を表す。ヨハネ21:18)は、ペテロの決意としてではなく、イエスの約束の言葉として語られる。この違いは決定的だと思う。決意としての死は、崩れ折れる。先週はイシガ・オサム(石賀修)氏の『神の平和 兵役拒否をこえて』(新教出版 1971)を読んだ。昭和6〜20年まで、彼が兵役拒否をした精神の内面を秘密にしつつ綴った日記であるが、彼が憲兵隊で転向していく辺りは、実に重たい気持ちで読んだ。そして今日、私たちも体制の中で日々の挫折、折れ曲がりを体験しているが、それと切り結ぶ意味で重かった。それはペテロの決意の崩れ折れとも重なり合っている。
日々、なんとか適当に生きている私たちに、もし、イエスの後に従い「自分の手をのばす」(これはイザヤ65:2のように世話をする意味もある)ことで、この世の重荷に関わることがあるとすれば、それはイエスの約束においてであって、それ以外ではない。平和聖日にその確信を新たにして進みたい。
(1971年8月1日 平和聖日
岩国教会 岩井健作)


