更に恵みを《ヨハネ 1:14-18》(1996 週報・クリスマス礼拝・洗礼式・転入会式・聖餐式)

1996.12.22、神戸教会
待降節第4主日、クリスマス礼拝
▶️ 神戸教會々報 62「一鉢のポインセチア
▶️ クリスマス燭火讃美礼拝「不思議な出会い

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん63歳)

聖書:ヨハネによる福音書 1:14-18、説教「更に恵みを」
(クリスマス礼拝出席214名)

”言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。”(ヨハネによる福音書 1:16、新共同訳)


 ヨハネ福音書1章16節の「恵みの上にさらに恵みを受けた」という言葉は、直訳すると「恵みを、対して、恵みに」となって、この「対して(アンティ)」という言葉のニュアンスの受け取り方で意味が変わってきます。


”わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。”(ヨハネによる福音書 1:16、新共同訳)


 もともと16節から18節のまとまりは、ヨハネ福音書の著者が書いたものというより、既にその当時、初代の教会で用いられていた《キリスト讃歌》の一つです。

 17節に「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」とあるように、モーセの律法を通して示されている恵みに対して、より大きな恵みとしての《独り子、イエス・キリスト》の出現を讃えた讃美歌だったと思われます。

 律法とキリストを対比させ、《新しい恵みと真理》を強調した歌でした。

「恵みに代わる恵みまでも受けた」(ヨハネ 1:16、『ヨハネ文書』小林稔訳、岩波書店 1995)とこのことを強調した訳もあります。

 けれども、ヨハネ福音書の著者は、ここに強調点を置いたのではありません。

 むしろ「この方の満ちあふれる豊かさ」(ヨハネ 1:16)を表現しようとします。


”わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。”(ヨハネによる福音書 1:16、新共同訳)


 一つの恵みを受けたら、そのままではなくて、それに加えて、あるいはそれと交換で、それに代えて、また新しい恵みをもたらす方がイエスだ、ということを述べているのです。

 なぜなら、1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言われているように、この方の身近さは、私たちの日常的な生活と共にあって、一度この方に出会ったならば、それは次から次へと深まっていくものだ、ということを表現しているのです。


”言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。”(ヨハネ 1:14、新共同訳)


 例えば、弱った時には弱り果てたイエスの姿が恵みとして映り、孤独の時には孤独の神の子の姿が慰めとなり、病む時は十字架のイエスが支えになるといったように、私たちの生の体験の、その時々に、恵みを与える方なのだ、ということです。


 私たちが、それぞれ自分に託された状況を生きるということ、人生を体験するということ、苦難・十字架をも含めて体験するということは、《恵みの受け皿》を形作っている、ということでもあります。


”ボランティアに楽しさを見いだした人は、ほとんど『助けられているのは私の方だ』という感想を持つ。”(金子郁容 『ボランティア もうひとつの情報社会』岩波新書 1992)


 逆説的ではありますが、ボランティアというアクティブな行為が、実は《恵みの受け皿》なのです。


 このことになぞらえれば、《”更に恵みを”という受け皿》を自覚した人生を進むことこそ、クリスマスのメッセージを温めることだと存じます

(1996年12月22日 神戸教会週報 岩井健作)


(サイト記)後半部の”ボランティア”という言葉には、阪神淡路大震災から2年弱、神戸の復興”ボランティア”が重なっているだろう。

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