神の恵みを無にすることなく《ガラテヤ 2:19-21》(1996 説教補助)

1996年12月15日、待降節(アドヴェント)第3主日、
神戸教会週報

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん63歳)

ガラテヤ人への手紙 2:19-21、説教題「神の恵みを無にすることなく」岩井健作


ガラテヤ 2:19-21について

 この句をめぐって、かつて宗教哲学者 西谷啓治氏は「一体そこでは誰れが語っているのか。パウロか。しかし彼はもはや生きてはいない。では他の誰れが…」と問うたという。

 しかし、そのことに答えることが重要なのではない。

 西谷氏は、このパウロの言葉を禅の修行の公案のように、これを手がかりに、我々が人間経験の深い次元に導かれることの促しとしているのだと思う。


 パウロはガラテヤの信徒への手紙2章15節以下で、キリスト教信仰の根本的な輪郭を簡潔に述べている。

 パウロは古い自分(ローマ 6:6)を「律法の実行によって」(ガラテヤ 2:16)実現された自分として捉えている。

 これは「異邦人のような罪人」つまり神との関わりを目的としない(罪=ハマルティア=的外れ)者ではなく、律法(神の戒め)を自分の力で成し遂げようとして宗教的にも倫理的にも努力してきた自分としての自負を含めて述べられている。

 だから16節「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」は、その自分に破れたという敗北宣言であると同時に、「信仰告白」でもある。

 自己の力による自己実現(神の前に義とされること)への終わりを、「律法に対して律法によって死んだ、わたしはキリストと共に十字架につけられている」(ガラテヤ 2:19)と告白する。

 ここで冒頭の疑問が出てくる。

 死んだ者がなお語っているのだろうか。

 ここで、語る者の基盤の転換が明確にされる。

 死せる者が自分の死について語り、そして自己の新しい生を語ることができるのは、「キリストの死(神自らの犠牲死)」に結びあわされていることによる。


 そして注目すべきは「肉において生きている(歴史的存在としての生)」ことは、「わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰による」(ガラテヤ 2:20c)ことであると告白する。

 ここから、キリスト者の生は、古き自分の延長ではなく、その死を経験しつつ「どの鼓動においても、どの呼吸においてもひそかに知らされている神秘への『目覚め』である。……絶えず新しくその存立と発展を負っている創造が時の去来の中で認識できるものとなる」(サムエル.フォレンヴァイダー、チューリッヒ大学神学部教授)と捉えられている。

 「内なる人は日々新たに」(Ⅱコリント 4:16)とはこういうことか。

 「神の恵みを無にはしません」(ガラテヤ 2:21)とは、自分の個別の状況を「恵み」とすることだ。

(1996年12月15日 神戸教会週報、岩井記)



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