怒る人間・怒らない人間(1970)

1970年7月12日 岩国教会週報
「先週説教より」ローマ1:18-23

(岩国教会牧師5年目、健作さん36歳)

 『一朝の怒りにその身を忘る』。怒りは激しい感情であって、理性による反省すら忘れさせる。『相撲に負けて妻の面を張る』。虫の居所が悪いとはいえ、苛立ちもここまでくると、あさましい。そこで、なんとか怒らない人間になろうと努力する。確かに自分の感情の苛立ちという面から捉えれば、怒らない人間がよい。聖書のいう自由な人間とは、感情の支配からの自由もそのうちに含まれているのだから。けれども、怒らない人間であれば、それでよいのか。

 旧約聖書に示されている神の怒り、人間の存在そのものに向けられているのではなく、人間の不義に向けられている。我々が、自分の苛立ちを感情的に相手の存在そのものに向けるのとはだいぶ異なる。その意味では、神の怒りは相手と関わりを持とうとすること(聖書では「神の義」)の表れである。ローマ人への手紙の主題は「神の義は、その福音の中に啓示され」(ロマ1:17)たという点であるが、主題の展開である1章18節で、神の怒りは人間の不義(神の義を受け入れようとしないこと)即ち、人間が人間であること(被造性)のわきまえを忘れて、自己絶対化を起こしていることに向けられている。怒ることの意味が復権するのは、この点に於いてである。苛立ちとしての怒りではなく、神の怒りに服する故に、人間の不義に対しての怒りが位置付けられる。

 人間が人間を殺すということ、これ以上の不義があろうか。一人二人が死んでもよいということを秘めた繁栄の哲学を許容することは、この不義に加担することではあるまいか。この不義に加担する自分に対して、まず怒る人間でなければならない。苛立ちとしての怒りではない怒りをもつ人間でありたい。神の義によって生きるために。

(1970年7月5日 岩国教会 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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