われ山にむかいて目をあぐ – 全部を語ってしまわない

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第50回「旧約聖書 詩編の言葉」②
詩編 121編1節-8節

詩編 121編
1 都に上る歌。
 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
 わたしの助けはどこから来るのか。
2 わたしの助けは来る 
 天地を造られた主のもとから。
3 どうか、主があなたを助けて 
 足がよろめかないようにし
 まどろむことなくみ守ってくださるように。
4 見よ、イスラエルを見守る方は 
 まどろむことなく、眠ることもない。
5 主はあなたを見守る方 
 あなたを覆う陰 あなたの右にいます方。
6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく 
 夜、月もあなたを撃つことがない。
7 主がすべての災いを遠ざけて 
 あなたを見守り 
  あなたの魂を見守ってくださるように。
8 あなたの出で立つのも帰るのも 
 主が見守ってくださるように。
 今も、そしてとこしえに。


1 、「教えることは出来ないが、学ぶことは出来る」。だれの言葉であったか忘れましたが、印象深く覚えている格言です。恐らく『聖書の学び」についても言えることだと思います。「学ぶ」ことが「主」で、「教える」ことはあくまでも「従」であることは当然なことです。ところがYMCAでも教会でも「聖書研究会」「聖書学習会」といっても、講師の講義が「主」になってしまっています。現にこの会も私の講義が主です。このような「学び方」はどうしても知識を学ぶことが多くなります。料理でも、技術でも、普通は知識を学ぶ面は「講義」でよいのですが、必ず「実習」とか「実技」があります。聖書の場合は、それぞれが生きている生活、あるいは人生が「実技」そのものですから、敢えてその面が表に出てこないのかも知れません。

 こういう学び方には、歴史的必然性があります。日本ではキリスト教(特にプロテスタン卜)は、明治初期に宣教師によって伝えられましたが、宣教の対象は主として知識階級でした(寺小屋で講義を受けて儒学、国学を学んだ層)、教会では講壇から説教が語られる「説教壇」の宗教でした。キリスト教主義学校の設立と相まって広まって行きました。

 まず講義型の学び方です。ですから、世界の大変高い水準の聖書知識が、学びの水準になりました。しかし、それは、他方で、二階建ての「二階」の知識という面を持ってしまいました。このことは、聖書だけに限ったことではありません。例えば、「民主主義」という政治の在り方にしてもフランス、イギリスにしてもそこから派生したアメリカにしても、人民が主となった、近代市民革命のような経験を経てきていますが、日本は、第二次大戦後、「所与」の憲法(確かに日本市民の側に根があったとしても)という形でそれを抱いてしまったので、民衆一人一人の力にならない弱さを持っています。

 今度の選挙で有権者の4割が棄権をしたのです。その意味で、聖書を学ぶことが、そのように日頃の生活(個人的人生における生死の問題についても、市民的社会生活や国際感覚としての戦争や平和、貧困や環境について)の血となり肉となるようなものにならない「学び(知識)」になっている面があります。

2 、では「身に付く」という面はどういうことでしょうか。それは、多分聖書を生み出した母体(旧約はイスラエル民族、新約は初代教会)が、共同体ですから、我々も「個人」ではなくて「仲間、共同体(教会)」に身を置いて、あるいは人間の関わりの中で、その苦難の歴史をたどりつつ、学び読むことで、「身に付く」面が養われるのだと思います(田中正造と聖書のこと)。

 言い換えると聖書は「出会い」をもたらし、「出会い」の中で、読み続ける書物だと思います。「教え」としての「知識」も大切ですが、文字として残されたテキストを通じ、そこに「出会い」を経験することが大事だと思います。

3 、詩編121篇について、知識的に学ぶべきことはたくさんあります(これは注解書で学べる知識です)。しかし、そうでない面もあります。

日本の近代文学者、太宰治は『走れメロス』『富嶽百景』『ヴィヨンの妻』『人間失格』などの作品で多くの人に親しまれています。彼が『桜桃』の冒頭に「われ、山にむかひて、目を擧ぐ。詩編、第百二十一」とあげているのは有名です。彼はこの一句で、聖書との出会いを語りました。この一句は文学です。次の「わが扶助(たすけ)はいづこよりきたるや」は哲学です。さらに次の「わがたすけは天地(あめつち)を創りたまへるヱホバよりきたる」は神学です。どこまでも真摯な「求道」の生き方が文学であることを語っているのが太宰です。哲学や神学をはるかに予想しつつも、そこまでを言葉にしない、人生のたたづまいを私は彼から学びました。また「汝の出づると入るとをまもりたまわん」(8節 文語) 「あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように」(8節 新共同訳)を私は、葬儀の度に読んできました。人は、生を受けてこの世に入り、死をもってこの世を出づる旅立ちをします。「入る」はあるいは「神の御許に」を意味するかも知れません。多くの親しい人の人生をこの一句で想起します。

 知的な聖書の学びにはない、聖書との(神との、神によって与えられた懐かしい人との)「出会い」です。聖書による「出会い」を大切にしてゆきたいと思います。