中風の人を四人で運ぶ(2013 礼拝説教・マルコ)

2013.1.27、明治学院教会(301)降誕節 ⑤

(明治学院教会牧師、健作さん79歳)

申命記 24:19-22、マルコ 2:1-12

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。”(マルコによる福音書 2:5、新共同訳)

中風の者をいやす(2009 小磯良平 ⑳)

1.励ましと希望

 今日の聖書の箇所は「中風の人をいやす」という表題の「イエスの奇跡物語」です。

 誤解を恐れずに非常に単純に言ってしまうと、イエスは「建前からものを考える人・律法学者」を厳しく批判し、「現実からものを考える人たち・身体麻痺の患者(田川訳)と苦労して一緒に生きている人たち」を励まし、希望を与えたという物語です。

 聖書を読むと「律法」がどんなに厳しい建前だったかがよくわかります。

 その尺度に、人間の生死を合わせねばならなかったのです(マルコ 2:27以下、14:62等)。

 9節「罪は赦された」と「床を担いで歩け」の表現に徹底してこだわる律法学者を厳しく批判します。イエスが病人を癒すために「罪の赦し」に言及したのはこの時だけです。不治の病は罪の結果だ(ヨブ 4:7)などと、本人にもそう思わせ、現実の出来事に宗教的意味を付して、苦痛を倍増させるなど、そういう権力を使う律法学者に心底怒りを込めて批判したイエスの姿が見られます。

 イエスの「人の子は……」の発言を、田川は「人間というものは自分たちの世界で生じる罪を自分たちで赦す権限ぐらい持っているのだ」という意味にとります。

「人の子」には、イエス自身を指す意味と、一般的に「人間」を指す意味とがあり、この理解も可能です。

 さて、現代人の生死を左右している「建前」とは何でしょうか?

 知識と地位をひけらかして建前をもっともらしく語る人間には、イエスに倣って本当に怒りをぶつけましょう。

 また、私たちにも建前で生きている時があるのではないか、深く思考を巡らせ、反省したいと思います。

2.”四人で運ぶ”

「身体麻痺の患者が四人の者に担われ連れてこられた」(3節、田川建三訳)。

 なぜ、または「人々が」、ルカは「男たち」と、元資料のマルコの「四人」を外してしまったのでしょうか。

 また新共同訳は「男」と訳すが、原語は中性名詞だから、田川訳・岩波訳の「者」が良い。

 四人は家族や近所の人で、女性が入っていたかもしれません。

「担われ連れてこられた」(非人称3人称複数も表現はマルコの特徴)には「運んできた」より自然な感じが出ています。つまり、障がい者と共に生活することが当たり前の様子です。「ノーマライゼーション(障がい者が地域で普通に生活すること)が板についているような感じが出ています。

 5節「信仰」(ピスティス)は、特定の信仰箇条を意味しません。屋根から降ろす知恵や熱心さを含めて、「神の恵み」への信頼です。四人で運ぶという当たり前の、日々のふるまいを支える恵みへの信頼です。

3.視点が変わる

「私が今最も誇らしく思うことは、障害を持つ自分の息子に、decent(ディセント)な、つまり人間らしく寛容でユーモラスでもある信頼に足る、そのような人格を認めることです」(大江健三郎『人生の習慣』 1992)

 彼(大江健三郎)の文学の底には、息子との共生が滲んでいます。イエスの「奇跡」はこの共生に示されているのです。

 イエスの言葉「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」は、彼に大きな励ましを与えました。

 今まで受け身だった生き方が「能動」に変わったのです。

「皆の見ている前を出て行った」彼は、”decent”(寛容、親切、慎み深い)な人間に変えられたのでした。

(サイト記:目撃した「皆」が「共生」への招きに応答できているか、問われている、変わらねばならないのは「私たち」の方である、との逆説か)

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