土の器(2014 信徒講壇 ②)

2014.5.11、明治学院教会(信徒講壇 ②)復活節 ④
2012.10.17 聖書の集い「土の器に宝を – 逆説による現実の突破

日本基督教団教師(前神戸教会牧師、前川和教会代務牧師)、
(会衆派の伝統で信徒籍を併せ持つ)単立明治学院教会 教会員(2014.4-2016.3)、
前・単立明治学院教会牧師(2005.9-2014.3)、80歳

コリントの信徒への手紙二 4章7-15節、ヨブ記 4章19-21節

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。(コリントⅡ 4:7)

コリントの信徒への手紙 二 4章7-12節 新共同訳

 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものではないことが明らかになるために。
 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。

1.著者パウロはコリント教会で大変な苦労をします。敵対者が「キリストの十字架の福音」を受け入れなかったからです。しかし、落胆しません。

 回心前のパウロは律法を「落ち度のないように」頑張る生き方でしたが、今は「十字架の死」に自分本位を結びつけて、自分が「死んで」、ただひたすら「恵みによって受け入れられる」生き方へと転換したからです。

「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられている」(コリントⅡ 4:1)と言っているように、困難に出会っても道が開かれることに希望を持つ生き方です。

「イエスの死を体にまとっています」(コリントⅡ 4:11)というのは、自分本位に戻る危うさを持つ、弱い生身を自覚している、という意味です。

 ありのままの絶望的な自分が神の恵みを証ししている喜びです。

 だから「わたしは弱い時にこそ強い」(コリントⅡ 12:10)と言えたのです。

2.その弱さと強さ、死と生の両方を同時に表す言葉として、彼は「土の器」という言葉を用いました。

 もう駄目だ、と嘆く弱い面と、それでも用いらているという肯定の面です。

 しかし、それは独りよがりで「そう思い込むこと」ではありませんでした。

「わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いている」(コリントⅡ 4:12)

 と言っているように、パウロが自らの「死」を自覚するのは、どうにもならない相手と向き合い、相手をやっつけてしまうのではなく、どうにもならない交わりの関係にこそ「死」を受け止め、相手がなお生かされていることを信じるという際どい場面においてでした。

「神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(4:14)

 と述べ、最後を「神に栄光を帰すようになるためです」と締め括ります。

「土の器」は教会における彼の姿なのです。

3.「土の器」とはいい言葉です。

「キリストの死」に結びつく契機となる「弱さ・脆さ・絶望的はかなさ」を表す反面、金銀ではない日常用いる土器(陶器)を表しています。

 その「土の器」に「宝」(並外れて偉大な力が神のものである)を持っていると言うのです。

 注目すべきは「器」が複数形であることです。

 交わりの中で発揮されている彼の様々な個性です。個性は関係の中での人間性です。キリスト者の作家・阪田寛夫氏の作品『土の器』(芥川賞 1974年)は、母の死を多くの人々に囲まれた証しの人生として描いた作品です。

4.多くの人々に親しまれたキルケゴールの研究家・飯島宗亨(むねたか)さんからの言葉を時折噛み締めています。

 膝を患い人並みには歩けない方でした。

「おもむろに歩みを佇みて息をととのえれば、路傍の草木が息づきて迎えてくれる。」

最近私も骨折でバイクをやめて、ゆっくりゆっくり杖をつきつつ歩いています。

 道々多くの草木、大小の花々が迎えてくれて、それは私を囲む多くの人たちを想像させてくれます。

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