目が澄んでいれば(2014 信徒講壇 ③)

2014.6.22、明治学院教会(信徒講壇 ③)聖霊降臨節 ③

日本基督教団教師、単立明治学院教会 教会員(2014.4-2016.3)、
前・単立明治学院教会牧師(2005.9-2014.3)、80歳

マタイによる福音書 6章22−23節、イザヤ 40章27-31節

目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい(マタイ 6:22)

マタイによる福音書 6章22-23節 新共同訳 「体のともし火は目」

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

 私は、かつて保育者の養成校で、これから保育園や幼稚園の現場にでて、幼い子に接する学生に、是非「保育者の目」として、3つの働きを覚えて欲しいというお話をした事があります。

第一は、客観的な目というものです。

 物事を冷静に観察する目というものです。保育者の実習にははじめに観察実習があります。保育現場で子どもを外側からよく観察する実習です。保育の中には入り込みません。子どもの行動、友達との関わり合い、全体の状況の把握です。

 例えば、登園してきた子どもがちょっと元気がないようです。経験の浅い保育者は、いきなり子どもに「あんたお熱があるのと違う」と声をかけました。子どもはこの一言でとても不安になってしまいました。経験のある教師は、その子の家庭事情をとっさに思いました。すぐ迎えにこれる家庭ではありません。熱があったとしても、冷静に時を見計らって体温を計り、子どもの納得で次の処置を打たねばなりません。主観的な目・感情的な目ではなく、客観的な、物事を対象化し、時間軸のある観察と思考を持つ、目の働きが必要です。

 私は、言語の世界の言い方に従えば「3人称の目」といっています。あるいは時間をかける長い目、全体を考察する広い目ともいえます。人に接することがお役目の人は、教師・医師・看護師・介護士・弁護士、そして子育てを担う母親にも必要な大切な目の位置です。

第二は向かい合う目です。

 保育者にとって、子どもへの愛情のまなざしが必要でしょう。子育ては目八分、口二分と申します。まなざしが育てるのです。「目は口ほどにものを言い」といいます。「先生とお友達、にらめっこしよう……」という歌があります。にらめっこの目は高い所から見下しの目ではありません。

「やさしい目が、きよらかな目が、今日もわたしを見ていてくださる」

 この讃美歌21-470番はよく歌われます。神様の目・イエス様の目は、優しい目・受容の目・語りかけの目なのです。これは、文法でいえば「2人称の目」です。2人称の目は保育者の命でしょう。

 しかし、目の働きは、単純に分けられるものではなく。二つの領域にまたがっています。 私は、幼稚園の園長を長いことさせて戴きました。いろいろなお役目の一つに保育現場の子どもの写真撮影がありました。お誕生会のときなどの母親と子ども、遊んでいる保育者と子ども、お友達同士の関係のなかで、向き合った2人が2人称に目が輝く時があるのです。そこを逃さず、シャッターをきるのです。こどもの目が輝いています。輝いた目に出会うのは2人称です。出会っていながら自分は3人称でいるカメラのファインダーから覗いている。保護者から、また教師からとても喜ばれる写真は2人称と3人称にまたがっています。撮影者は被写体を3人称で見つめていなければできない仕事です。

第三に、自分が自分を見つめる目があります。

 反省の目、内省(深く自分を省みる目)です。黙想(無言で考える事)というのは目をつぶったままですが、目を閉じる事で、心のうちに集中ができます。沈思黙考などといいます。「1人称の目」です。しかしこれも、お祈りの時などは、深く内省していますが、神様に語り掛け、対話している意味では、1人称でありながら2人称を生きている世界です。

 さて、マタイ福音書に「目が澄んでいればあなたの全体は明るい」という格言めいた言葉があります。マタイではお話の前後に「お金」の話をおいています。前には「天に宝を積む」というお話があります。後ろには「神と富」というお話を持ってきました。さらに山上の説教では有名な「思い煩うな」に続けて読む文脈を考慮に入れる必要があるでしょう。

「目が澄む」とは本来お金とは関係のない話ですが、マタイはお金にまつわる目移り・貪欲・こだわり・思い煩いに対して、どうしてか目をキョロキョロさせることに重きを置いています。そういう目の迷いから解放されて「神の国と、神の義を求める」ことに目を集中させようという意味で使われています。 

「神に対する従順さに関しての誠実さと正直さを意味する」(ウルリッヒ・ルツ p.517)、「本質的に言葉通りに、《単純な目》ということである。横目で見ない、見るべきものをはっきり見る、有りのままを見るということ」(関根・伊藤 p.102)、「単純であるー目が正しく働き、はっきりしない曖昧な像を刻まないーということ」(シュニーヴィント p.187)、「目のたとえが本来どのような意味であったかははっきりしない。(前後の文脈から)金銭へのこだわりのない態度を含意する」(橋本滋男 p.63)。注解書はそんな解説を添えています。

(サイト記)上記書名不明。

「澄んでいる」は旧約聖書では「二心のないこと」「物惜しみしない」「気前のよい」(箴言11:25)などと用いられ、新約聖書ではパウロが「物惜しみをしない」と献金に関連して用いています。もともと単純な、純粋な、という意味ですが、目移りを起こさない事を言っていると思います。

 私は、この語が持っている根本の意味に注目したいと思います。「根本の意味は『単一』あるいは『全体』である」(釈義事典Ⅰ、p.158)。つまり、目の働きには様々な面があるが、それが相互にその特徴を活かしながら関係づけられて、全体として「単一な働き」としてまとまっていることが大事であるという意味に受け取っています。

 つまり、3人称の働きが強い、2人称の働きが際立っている、1人称の働きに終始しているということが有りはしないか、ということです。それぞれの働きは大きくは一つなのです。

 保育者の立場でいうと、子どもを冷静に眺めるという面で優れた教師がいました。しかし、その組の卒園の時、クラスの「まーくん」に「僕は幼稚園でなにが一番たのしかった?」と私が聞きました。

「受け持ちのS先生が風邪で休んで、となりのくみと合併保育のとき隣の先生に遊んでもらったのが楽しかった」と言ったのには唖然としました。いつも3人称で見ているから冷たい目を感じていたのでしょう。

 いつも自分の失敗を反省することで厳しい保育者がいました。とても暗いのです。子どもが「先生、お外へ行こうよ」と子どもが先生を引っ張ることがありました。子どもと向き合うことに真剣な保育者がいました。子どもはうっとうしいこともあって先生の目から逃れていることもありました。 

 さて、目の向けどころを「キリスト者の目」ということで考えてみます。

3人称の目は、「歴史認識・状況を見る」ということでしょう。

 長い目・広い目です。歴史の文脈で、物事を見る目です。

 3人称の目を全く持たなかったら、信仰生活はとても主観的になります。世の中がどっちへ動こうと、内にこもるキリスト者です。社会の事・世界の事・隣人のことにはかかわりがないという信仰者です。社会・世界・隣人のことなど関わりない信仰者とは如何なものか。

2人称の目は、行動の目です。

 わたしたちの行動は、誰かに促されて、また、誰かと共に、誰かのために、誰かを覚えて、という事になります。教会が社会的行動を必要とするのは、神の救いは「共に生きる」という、神御自身の姿の表れですし、イエスを遣わして御自身を現されたという福音の根本的構造に基づいています。神の救いは「共に生きる」という、イエスを遣わして御自身を現されたという福音の根本的構造による。神は行動する神である。

1人称の目はとても大事です。

 たえず、神の前に悔い改めをして、懺悔をし、感謝してゆく信仰生活の基本であります。この3つの目のありようが、相互に関連し、全体として、ひとつになっている事の全体を「目がハプルース(澄んでいる)」と表現しているのがこの箇所です。

 このハプルースを「ヤコブの手紙」では

「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなく(ハプルース)とがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。」(ヤコブの手紙 1:5)

 と用いている。

 ヤコブの手紙は「知恵」という言葉で「人格化された福音そのもの」を現している。その知恵を惜しみなくお与えになる事が神の恵みだと教えています。

 神が人に対して持つ関わり全体を意味しています。目が澄むとは、神への関わり、神からの関わりの身近さを現している。

「だれにでも惜しみなく(ハプルース)……お与えになる神に願いなさい。」(ヤコブの手紙1:5)は、神との関わりの身近さを覚えさせる。

「惜しみなく自らを与える神」に「澄んだ目」で応答をしてゆきたい。「澄んだ目」は信仰の成熟を表す。

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