受難物語のイエス − 独りになるということ(2014 聖書の集い・イエスの生涯から ⑧)

マルコによる福音書 14章32-42節 ”ゲツセマネで祈る
(マタイ26:36-46、ルカ22:39-46)

2014.6.18、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第78回、「新約聖書 イエスの生涯から」⑧

(前明治学院教会牧師、健作さん 80歳)

1.福音書のイエスの生涯の物語は「宮潔め」(マルコ11:15-18)のあと一気に、当時のユダヤ宗教権力者たちによるイエス殺害へと進んで行きます。

 イエスの十字架の処刑死に至る、一連の物語を「受難物語」といいます。この劇的な出来事が、人々にまとまった伝承・物語として語り伝えられ、文書化され、最初にマルコ福音書になります。

 その中の「ゲツセマネの祈り」が、今日読んだテキストです。イエスは、この祈りの場所に、ペトロ・ヤコブ・ヨハネの弟子たちを伴って(14:33)、彼らに「ここを離れず、目を覚ましていなさい」(14:34)と命じています。

 しかし、弟子たちは、イエスの祈りに同伴できずに、眠ってしまいます。

誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい(38節)

 と言われます。

心は燃えていても、肉体は弱い(38節)

 という意味深長な言葉を掛けて、三度祈りの場に出掛けて行きます。

 三度目に戻ってきたイエスは 

「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。……わたしを裏切る者が来た。」(41-41節)

 と言って、物語は一気にイエスの逮捕、裁判そして十字架(政治犯の死刑)処刑へと進んでゆきます。

2.今日、注目したいのは、弟子たちからも理解されずに「イエスが孤独であった」ということです。

 家族から出家し、ヨハネ集団を離れ、弟子集団からも理解されず、ゲツセマネで「独り」祈る姿にそれが現されています。

「孤独とは何か」がテーマです。

「祈りは格闘だ」といったのは祈りの名著を残したフォ-サイスという神学者(『祈りの精神』斉藤剛訳 ヨルダン社)です。格闘とは、自己変革、自分の思いが砕かれ、新しい世界へと導かれること、死と生の包含を意味します。

 初代教会の伝道者パウロは自分の病気の意味を悟るために神と格闘をし続けます。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント信徒への手紙 二 12:9、新共同訳)

 との逆説的答えをその格闘の中で得ました。そこに至るまでには「死と生」のドラマがありました。その意味では、イエスの「ゲツセマネの祈り」は「死と生」を包含する祈りの極致であります。

「わたしの願うことではなく、御心が行われますように」。宗教改革者のカルヴァンは「神の尊厳にうたれ、地につく煩悩と執着とを捨てて、神の前に進みよるのでなければ、正しく適切に自己の祈りに向けて、整えられたとは言えないのである」と厳しい表現をしています。

3.イエスの祈りは、神の前での孤独を意味しています。

 己の死を先取りした人間の実存の極みです。人間は本当に孤独になり得るのか、という問いを持っています。

 孤立(関係の喪失、聖書は「罪」という)はするけれども孤独にはなれない姿が人間の実存です。しかし、孤独のない所には連帯、共存は有り得ません。

 神学の世界では「イエスは(神が)地上に在す」逆説的姿であると纏めます。自ら高き所にいますのではなく「ひどく恐れてもだえ始め(マルコ 14:33)」て、弟子たちと共におられるという存在のありようは神の逆説的存在だというのです。

 イエスは弟子たちに「もうこれでいい(アペケイ)」と言っています。この語はもともと商業用語で「領収済み。勘定は済んでいる」という意味です。

 本当の孤独に同伴できない弟子たちの存在がなお許容されているということです。

 祈りについてパウロは

わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ信徒への手紙 8:26)

 と言っています。

 祈りは、人の行為でありながら、それは神の行為に包まれてこそ為し得るものだという事を語っています。

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イエスの最後 − 十字架の死(2014 イエスの生涯 ⑨)