小磯良平と神戸のキリスト教(2014 宣教学 63)

2014.7.1、西宮公同教会、関西神学塾、「岩井健作」の宣教学(63)

1.「岩井健作の」宣教学(27)「画家・小磯良平を通してみたキリスト教」

2.神戸のキリスト教
① グリーン(Daniel Crosby Greene, “D.C.グリーン”, 1843-1913)。
 1869(明治2)年、来日、最初のアメリカン・ボードの宣教師。
 1874(明治7)年、摂津第一公会(日本組合神戸教会)を設立。

三田(さんだ)藩主・九鬼隆義(1837-1891)
 藩籍奉還後、三田知事、福沢諭吉と親交あり、開明性に富み、神戸に出て、小寺泰次郎(小磯の母方実家、小寺謙吉15代神戸市長は養母・英の弟)と外国薬の商店・志摩三商会を興し、神戸開港後を見込んで、広大な土地を購入、巨万の富を得る。有馬保養中のJ.デイヴィスに接して感化を受ける。宣教医J.C.ベリーを主治医とする。1074年、娘美代の死去に際してキリスト教葬儀を行う。神戸女学院創立は彼の要請による(寄付者)といわれている。
 1887年 4月24日神戸教会で受洗した。しかし、藩内の強い反対で仏教に帰信、三田心月院に埋葬。良平(八人兄弟の次男)の生家・岸上は九鬼の家臣。養子先の小磯夫妻共に神戸教会員。実母、養母ともに神戸女学院出身。英は第一回卒業生。

3.小磯の女性観の背景としての神戸女学院
 1873(明治6)年、アメリカン・ボード派遣の婦人宣教師・E.タルカット(Eliza Talcott)、J.ダッドリー(Julia Dudley)が来日。
 日本女性の教育と伝道のため花隈村に私塾「神戸ホーム」開設、1875年10月2日、寄宿学校落成(創立記念日)。
 1879年、V.クラークソン(Virginia Clarkson)後継、「神戸英和女学校」と改称。
 1894年、校名を「神戸女学院」とする。
 創立以来「愛神愛隣」をモットーにしたキリスト教教育の伝統を守る。
 小磯の女性観の背景には、畏敬ともいうべきピューリタン(清教徒)の女性像のたたずまいがある。

 小磯を囲む女性たち。資料①参照。エピソード(洗礼を受けた理由「母の強いすすめによります」、初対面の時わざわざ「T嬢の像」へ自ら案内。落合敏子への思慕を感じさせた)。
 ピューリタンの母に対する小磯と鶴見俊補との拒否と受容の重点の違い。

4.従軍画家(計4回、1938年、1940年、1942年、1943年)
「南京中華門の戦闘」「娘子関を征く」、「カリジャチ停戦協定」、「ビルマ独立式典図」(決して戦闘場面ではなかった。宮本三郎、藤田嗣治などと比較)。
 同時期に「斉唱」(小磯の代表作)、母子像(戦時中戦争協力の画家のテーマの隠れ蓑であったとはいえ小磯は違ったモチーフ、アングル「ルイ13世」などへの関心からであろう[廣田生馬]資料③)。肖像画。「父親の像」(1923)「池長猛(いけながはじめ)肖像」「小寺謙吉像」「朝比奈泰彦像(A博士)像」「0博士像」、神戸教会関係「平井城像」、家族像「二人の少女」、「K夫人像」。

5.小磯の内面に影響したピューリタニズム
 乾(いぬい)由明(京大教授 1998当時)の惜別の言葉「清澄なリアリズムに芳醇さ、西洋古典主義(アングルなど)を受け継ぐ」。
 決して固定化したアカデミズムに陥らず、より根本的には、常にみずみずしい精神と感覚の自発性を持ち続けた。
 これは、神戸のキリスト教が持つ、ピューリタニズムの影響であろう。日本の宣教では長老派が東京を拠点としたため、D.C.グリーンの会衆派が関西を拠点としたことによる特徴ではないか。「信条」のキリスト教ではなく「文化」「生」と接点を持つキリスト教。

「岩井健作」の宣教学インデックス(2000-2014 宣教学)

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